支那の見方・その8

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前回の最後、漢民族の天下観をろくすっぽ知らなかったがゆえに、20世紀の前半に大失敗をやらかしたのが日本、と締めくくったが、今回の内容はその大失敗の詳細な解説。

清朝末期までの支那人にとって、支那とは「全ての国々がひとつに統合された「天下」」という認識だったが、江戸時代までの日本人にとっても、日本とは「六十余州」という言葉もあるように、大和国武蔵国信濃国長門国陸奥国……といった、60余りの国々の集合体、という認識だった。

しかし、明治維新後の新政府は支那に倣って中央集権化を進め、「統一国家としての日本」の形成を目指した。そして、日本人の多くが「統一国家としての日本」を意識する契機となったのが、日清戦争だった。

日清戦争で日本軍の軍人は、(戊辰戦争の勝者だった)薩摩や長州の出身であっても、(戊辰戦争の敗者だった)会津や庄内の出身であっても、等しく「日本人」として戦い、その戦いが新聞や雑誌といったメディアを通じて全国津々浦々へ報じられることによって、日本人の多くに「統一国家としての日本の国民である日本人」という国民意識が植え付けられた。

そして、日清戦争の勝利によって、日本人は支那人を「国民意識を持たない遅れた連中」と、侮るようになった。しかし、それは支那人の天下観を知らないがゆえの勘違いだった。当の支那人自身は「我々は全ての国々がひとつに統合された「天下」に生きている」という自意識(あるいは建前)を持っていた。そうした支那人にとって、「国」とは「天下」よりも劣るものだった。

有史以来、「天下」の分裂と統合を何度も経験してきた支那人が国民意識を持たなかったのは、遅れていたからではない。進みすぎていたからだ。

日清戦争から十数年後、今度は辛亥革命が起きたが、ここで再び日本人は勘違いをやらかした。辛亥革命が(万里の長城よりも北側が本拠地だった)満洲族による支配を漢民族が打倒するという性格のものだったので、満漢は可分、つまり万里の長城よりも北側を日本が好き勝手に扱っても支那人にどうこう言われる筋合は無い、と解釈した。

しかし、有史以来、多くの少数民族を支配して、北方の遊牧騎馬民族とも渡り合ってきた漢民族にとって、「天下」は元朝や清朝以降、万里の長城よりも北側に拡大したという認識であり、ゆえに満漢は不可分だった。

そもそも、日本人による支那のイメージ自体、現在に至るまで満漢がごちゃ混ぜになっている。日本人による支那のステレオタイプと言えば今でもチャイナドレス辮髪がツートップだが、チャイナドレスとは満洲族の民族衣装である「旗装」を西洋風にアレンジしたものであり、漢民族の民族衣装である「漢服」は、むしろ和服に近い(というより、和服が漢服の影響を受けた)。辮髪も満洲族の習慣であり、清朝末期、留学や亡命などで支那から外国へ出た漢民族の内、満洲族による支配の打倒を誓った者は辮髪を切り落とした。このように、満漢のイメージが(いまだに)ごちゃ混ぜなのにも関わらず、満漢は可分などというのは御都合主義も甚だしい。

しかし、満漢は可分、という勘違いは解消されないまま、辛亥革命から20年後、日本陸軍内の一夕会による主導で満洲事変が起きて翌年に満洲国が建国された。

一夕会、そして一夕会から派生した統制派にとって、万里の長城よりも北側に位置する満洲と内蒙古の領有とは、主に「激増する内地の人口(とりわけ経済的に困窮していた農民)を食わせる為の農地の確保」「第一次世界大戦以降の国家総力戦を耐え抜く為の自前の資源の確保」「計画経済で擡頭するソ連に対する緩衝地帯の確保」の三本柱を実現することによって、もしもソ連との間で第二次日露戦争が勃発しても負けない態勢を作り上げることが目的だった。

しかし、それは漢民族の天下観を全く無視したものだった。満洲国の建国とは、漢民族にとっては「満独」であり、天下を複数の国々に分裂させる行為であり、決して看過できるものではなかった。ゆえに、清朝における天下を収復しようとする漢民族との対立は決定的なものとなり、最終的に支那事変に至った。

支那事変は、最終的に日本の敗北に終った。日本が勝とうとするのならば、相手の土俵で戦う以上、相手の価値観・相手の定めたルールに従う必要があった。具体的には、毒を食らわば皿までで、天下=支那全土の制圧を目指し、北平の占領後、冬至に天壇で天皇による祭天を実施して、満洲族の宣統帝が有していた「天下全体を統治する唯一にして正統なる皇帝の徳」を大和族の天皇が継承し、大和族の天皇が新たな皇帝になることを内外に宣言すれば、支那全土を制圧できた、かもしれない。ただしそれは、漢民族にとって、日本が新たに天下に加わることになり、それによって漢民族がどんどん日本に流入してゆき、結局は大和族による漢民族支配が引っ繰り返されてしまうことになっていた、かもしれない。実際、内蒙古も満洲も、結局は漢民族の人海戦術に呑み込まれてしまったのだから。

あるいは、前漢の武帝による征服から千年以上に渡る北属期を経て「越独」を達成したベトナム北部に倣って、あくまでも満洲と内蒙古の領有にのみ専念して、漢民族からの軍事的挑発に耐え続けていれば、満独(と蒙独)は成功していた、かもしれない。だが、実際には挑発に乗ってしまった。天下から満蒙だけを切り取るというのは、最初から困難な試みだった。

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