凸凹心身:世間知

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発達障害の当事者として、あくまでも一個人の一事例ながら、その具体的な心身の不具合(感覚過敏過集中身体操作記憶力自他境界)の事例を1ヶ月に渡ってグチグチグチグチ書き連ねてきたが、今回で一応締め括りとする。

感覚器官や集中力や運動神経や記憶力がバランスを欠いていると、他人の考えや思惑を推測しにくくなるだけでなく、言語獲得のプロセスも定型発達者とは大きく異なってしまう。そして、それは場合によっては人生に多大な悪影響を及ぼしてしまう。

両親にとっては最初の子供だったから、子育てに熱が入っていたのか、物心付いた時から福音館書店の絵本や世界文化社の「ドレミファランド」の全巻セット(もちろん、絵本に付いていたのはCDではなくアナログレコード)が身の回りにあった。

西宮の幼稚園で他の園児と関わる時間よりも、家で絵本やレコードを(過集中で)何度も繰り返し読み聞きする時間の方が圧倒的に長く、それが長期記憶に叩き込まれることによって、日常的に標準語を使うようになってしまったが、それに加えて「物事を正確に相手に伝える言葉」へのこだわりが極端に強くなってしまった。

年長組の時に尼崎に引っ越すと、家の近所には家族経営の米屋があった。パンや飲み物も売っていたので朝食用の食パンを一人で買いに行くお使いを親からしばしば頼まれたが、店番が初老の母親の方ではなく若い息子の方だと気が重くなった。

何故ならば、その米屋の跡取り息子はおつりを返してくる時に「ハイ30万円〜」などと、嘉門達夫「アホが見るブタのケツ」の歌詞そのまんまのベタベタなボケを毎回必ずかましてくるのだが、子供心にこれが物凄く嫌だった。

つまらないからではない。言ってることと実際にやってることが著しく食い違っている、というのが極めて不快で我慢ならなかったのだ。

え?そんなしょーもないネタで?と、定型発達者(特に関西人)は思うだろうが、ASDは必要以上にこだわりが強すぎて、言葉を字義通りに解釈してしまいがちだから、そのように受け止めてしまうのだ。そして、そのようなASDの規則性・正確性に対する極端なこだわり特性は、ボケとツッコミが挨拶代わりな関西の風土とは物凄く相性が悪い。ただ単に関西弁が使えないというだけでなく、そうした洒落や冗談が通じないということもあって、ますます日常で接する周囲の関西人とは馴染めなかった。

逆に、そうした規則性・正確性に対する極端なこだわり特性は、プログラミング言語とは相性が良かった。1970年代生まれは、小中学生時代にファミコンかMSXのどちらかを親に買ってもらっていた者が少なくない(両方買ってもらえてたのは金持ち)。だから、小学生の頃にはMSXを持っていた同級生に1週間限定でファミコンを貸してMSXを借りることがあった。そして、図書館で借りたBASICの入門書に載っているプログラムを一言一句間違えずに入力すれば、ちゃんとプログラムが動いた。方言丸出しの同級生なんかよりも、パソコンの方が遥かに言葉の通じる相手に思えた。

加えて、小学生の頃は規則性・正確性に対する極端なこだわり特性ゆえに、「作者が思い付きを好き勝手に書き散らせるフィクションよりも、綿密な取材に基づいて事実だけを書き記すノンフィクションの方が格上」と、本気で思っていた。小学2年生の時から現在まで40年以上ヒストリカルウォーゲームと関わることになったのも、元々はそうした考えが影響していた。

さすがに今では「キャラクターの独り歩き」ということも知っているし、例えば歴史小説は史料の空白を作家の想像力で埋めるという点で歴史研究と相補的な関係にあるということも知っているので、フィクションよりもノンフィクションの方が格上、などとは思っていない。

とはいえ、今でもSFは考証ゴリゴリのハードSFが好みな一方、スペオペはスター・ウォーズや銀英伝ですら、人類が地上で延々繰り返してきたことを宇宙に置き換えただけ、としか思えないし、ファンタジーに至っては親に連れられて映画館で見た「ネバーエンディング・ストーリー」とファミコンでプレイした初代ドラクエくらいしか嗜んでいないし、ハリポタも指輪物語も全く興味が無い。だから、D&Dも誕生の経緯と現実社会に与えた影響という観点でしか興味が無い。

中学校に進学する頃には言葉遊びを多少は解するようにはなったものの、相変わらず同級生とは馴染めなかった。だから、標準語だけでなく関西弁も学ぼうと「大阪ことば事典」を買った。文庫本でも1000円を超える価格は中学生にとって決して安い買い物ではなかったけれど、言葉が、考えが、思いが周囲にちゃんと伝わっていないという苦悩が購入を後押しさせた。しかし、机上の読書では関西弁の会話は身に付かなかった。

大学進学前には電気グルーヴのオールナイトニッポンを聞きながら、放送中に頻繁に飛び出してくる「個々の単語には意味があっても全体としては全く意味の無いナンセンスな単語の組み合わせや文章」でゲラゲラ笑い転げるようにはなっていた。とはいえ、どうしても意味のある文章しか作れない俺には、こんな芸当は到底できないよなぁ、と、羨ましさを覚えていた。

若い頃に周囲との言語コミュニケーションが足りないと、非言語コミュニケーションも足りなくなり、そしてテキスト化・明文化されていない暗黙知の欠如にまで繋がってしまう。しかし、周囲の年長者は、親も含めて誰もそのことに気付いていなかった。

学校のお勉強はできる方だったので、この子は口うるさくしつけなくても大丈夫、と思ったのか、両親は普段あまり口出しすることは無かった。だが、実際には全然大丈夫ではなかった。身だしなみとか、人付き合いとか、ゼニカネ勘定とかいった世間知を学ぶ機会がほとんど無かった。

そして、二十歳を過ぎると、そのような世間知・ソーシャルスキルの欠落のツケが全部回ってしまった。

一例を挙げると、2000年代にプログラマーとして働きながら朝鮮戦争の史跡巡りなどで連休の度に韓国全土を一人でほっつき歩いていた頃、仕事場に設置されていた社員共用の冷蔵庫に昼食用のキムチを常備していた。匂いの強いものを共有スペースに置くべきではない、ということにすら気付いていなかった。

その、大学卒業後にプログラマーとして丸十年働いていた会社は、今にして思えば典型的なブラック企業だった。就職氷河期の真っ只中、特に勤め先も決まらないまま大学を卒業して半年後、コンビニで適当に求人誌を立ち読みしていて、WindowsだけでなくMacでもソフト開発をしているという紹介文に惹かれて入社したものの、毎日のように朝礼で専務が怒鳴り散らすような職場だった。

しかも、個々の営業担当が得意先回りをして、既に納品済みで稼働しているシステムに関する追加の修正要望を聞くと、その場で個々の開発担当に電話で依頼してくる、というやり方で、誰がどこの案件を抱えているのか、社内全体でのタスクの全体像を誰も把握していないという無茶苦茶な体制だった。

古参の営業幹部はおしなべて経験則でしか物が言えず、新しく営業社員が入っても碌な指導ができず、結果、営業の新人は短ければ1週間で、長くても5年くらいで辞めていった。間違い無く10年間で100人以上が入っては出ていった。

残業ばかりで時には徹夜・終電・休日出勤もあり、加えてほとんど誰も有給休暇を取っていなかった。30代の時点で頭は白髪だらけになってしまい、時給に換算すれば手取りは2000円にも満たなかった。日常の業務以外でのスキルアップを図る余裕も無かった。

しかも、ソフト開発で使っていたツールは書店に日本語の解説書も無いようなマイナーな代物だったので、丸十年使い倒しても他所で潰しが効くようなものではなかった。大学在学中に関心がMacでのDTPからMacでのプログラミングに変わってしまったこともあって、マイクロソフト製品絡みの資格は勿論のこと、アドビ製品絡みの資格も全く取っていなかった。

とっとと見切りを付けて辞めるべきだったのに、世間知の無さゆえ、ズルズルと丸十年も勤めてしまった。

身も心もボロボロの状態で退職して、当分働く気になれず、退職時点で1000万あった貯金を2011年の暮れまで海外をあちこち一人旅することで使い果たし、そして、成人発達障害の取り扱いで知られる昭和大学附属烏山病院で正式に発達障害の診断が下った。

それから10年余り経ったが、就職氷河期組で、なおかつ発達障害者(就中、関西で生まれ育った発達障害者)は、二重に見捨てられたと思っている。

日本で発達障害が広く知られるようになったのは21世紀に入ってからだったので、昭和の幼少期に療育を受けられなかったのは仕方無いとしても、東京で生まれ育っていれば、そうでなくても20代の内に東京に出てゆけば、もうちょっとマシな人生になっていたんじゃないかと、今でも思ってしまう。

加えて、発達障害者に対する就労支援としてジョブコーチ(職場適応援助者)の制度が現在は設けられているが、本当に必要なのは、もっと包括的で就労に限らない「ライフコーチ(生活適応援助者)」だと思う。いわゆるカサンドラ症候群もライフコーチの制度があれば避けられるような気がする。

関西で過ごしていた、いや、過ごしてしまっていた30年余りは、振り返ってみれば苦い思い出しか残っていない。気の置けない同期にも、ロールモデルになる先輩にも出会えなかった。時折、かつての同級生がSNSで接触を図ってくるけれど、速攻でブロックしている。二度と関西に戻るつもりなんて無い。

この個人サイトは2016年のリニューアル時に名称を(スティングの「Englishman in New York」の歌詞にひっかけた)「legal alien」に変えたけれど、そもそも関西でも東京でも発達障害者という「見た目は健常者のくせに何か言動が変な世間知らずの異物」として生きざるを得なかったし、関西よりも東京の方が住み心地が多少マシというだけに過ぎない。

現実なんてクソゲーだ、と言うけれど、こんな使い勝手の悪い機体では尚更攻略なんて望めない。生きているだけでストレスが溜まる。長生きなんてできやしないし、したくもない。人生百年時代なんて冗談じゃない。今年の秋で50歳になるが、こんな凸凹心身で更に50年も生きるなんて、むしろ罰ゲームだ。

この世は、眩しすぎてうるさすぎる。こだわりは軋轢ばかり生み出し、力加減も上手くできず、嫌なことばかり思い出してしまう。やりすぎて、やらかす一方、やりそこなう。

発達障害の診断が下って、遺伝リスクも高いと知ってからは妻子を諦めたし、語学にしろITにしろ、ちゃんとしたキャリアも何ひとつ積み上げられなかったし、資産も無い、人望も無い、そして気力も体力も加齢と共にどんどん落ちている。

将来に対する明るい見通しなんて全く無い。麻雀で言えばハコテン状態の南4局だ。こんなもん北場まで続けるつもりなんて無い。

結局、この人生は、ダメだった。

もうウンザリだ。心底嫌気が差す。だから、これは少し早めで少し長めの、遺書でもある。

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