一発ギャグとパロディ

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タイトルだけ見てお笑いの話だと思って脊髄反射でアクセスしてきた奴、後半は卓上ウォーゲームの話になるし、そっちの方が本題だから前半読んだら回れ右して失せろ。

笑いは国境を越える、と、しばしば言われたりするけれど、実際はその内容によって、国境の(というよりは文化圏の境界の)越えやすさは異なってくる。

バスター・キートンジョン・クリーズ志村けんの、言葉を使わないようなスラップスティックは国境を越えやすい。一方、漫談のような話芸がウケるのは、基本的に同じ言語圏内に留まる。いくらアメリカで有名だからって、大抵の日本人はトレバー・ノアなんて知らないし、明石家さんまはほぼ日本でしか知られていない。

加えて、言語依存が低いお笑いであっても、言語の壁を越えてウケるとは限らない。かつてチャンバラトリオが改革開放直後の中華人民共和国で公演した時、剣劇はウケたものの、ハリセン叩きではブーイングが起きた。もう少し新しい例では江頭2:50のトルコ全裸事件を覚えている者も少なくないだろう(これも20年以上前の話だけど)。

そもそも、日本の国内においても、関東と関西でウケるお笑いは異なる。加えて、年齢や性別、知能や社会的階層によっても、ウケるお笑いは異なる。お笑いのウケる範囲というものは、意外と狭い。

あるお笑いが広くウケるか否かは、言語や文化その他諸々のコンテクストへの依存度が関係してくる。コンテクストへの依存度が低いお笑いの筆頭としては、一発ギャグが挙げられる。逆に、コンテクストへの依存度が高いお笑いの筆頭としては、パロディが挙げられる。

新約聖書が元ネタのパロディは、基本的にクリスチャンにしかウケないし、スーパーの惣菜コーナーで「春はあげもの」というキャッチコピーを見て笑えるのは、「枕草子」を知っている者だけだ。

逆に、一発ギャグはそうしたコンテクストへの依存度が低い。間寛平がアメマ裁判で裁判官から「アメマとは何ですか?」と訊かれて「ア~メマァ~です」としか答えられなかった、というエピソードは、一発ギャグというものがそれ単体で成立していてコンテクストに依存しにくいということの証左だと言えるだろう。

しかし、たとえコンテクストへの依存度が高いパロディであっても、元ネタそのものが広く知られていれば、広くウケやすい。代表的なものが「最後の晩餐」のパロディだろう。「最後の晩餐」そのものは新約聖書のエピソードだが、このエピソードを題材にしたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画はクリスチャンか否かを問わず、世界中で広く知られている。それゆえ、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を元ネタにしたパロディは世界中で日々新しいものが作られていて、「最後の晩餐 パロディ」で検索すれば、実際にいくらでもパロディを確認できる。逆に、ほんの短期間だけ放送されたTVCMなどを元ネタにしたパロディの場合、数年後でも意味がわからなくなり、そもそもパロディだったこと自体、忘れ去られてしまったりする。

このように、あるお笑いが広くウケるか否かは、「コンテクストへの依存度」と「コンテクストそのものの普及度」が関係してくる。以上、これでお笑いの話はおわり。卓上ウォーゲームに興味の無い奴は回れ右して失せろ。

……さて、長い前フリはここまでで、ここからはいよいよ本題の、卓上ウォーゲームの話。非電源ゲーム界における卓上ウォーゲームのルールというものも、お笑いにおけるパロディと同様、コンテクストへの依存度は(いわゆるアブストラクトゲームのルールに比べて)極めて高い。これは、歴史上実際にあった戦いを題材にしたヒストリカルウォーゲームに限った話ではない。第三次世界大戦や日本本土決戦といった仮想戦ゲーム、「機動戦士ガンダム」の一年戦争や「銀河英雄伝説」のイゼルローン攻防戦といった、フィクション上の戦いを題材にしたゲーム、更には「Tactics II」や「Field Marshal」といった、特に元ネタの無い、架空の国同士の戦いを題材にした架空戦ゲームに至るまで、卓上ウォーゲームのルールはコンテクストへの依存度が極めて高い。

卓上ウォーゲームのコンテクストと言うと、大抵の人は「史実」を連想するだろう。しかし、卓上ウォーゲームのコンテクストは史実に限らない。フィクション上の戦いが題材であれば元のフィクションがコンテクストになる。そして、時代や地域、フィクションかノンフィクションか、そもそも扱う戦いの元ネタが存在するか否かを問わずに共通する、戦場や軍事組織の原理原則といったものが、卓上ウォーゲームのルールには色濃く反映される。

戦場や軍事組織の原理原則が反映された代表的なルールをひとつ挙げるならば、陸戦ゲームで多用される「ZOC(Zone of Control)」が挙げられるだろう。ZOCというのはつまり、陸上の部隊は敵の部隊が近付いてきたら普通は黙って見過したりはせず、威嚇射撃を浴びせたりして足止めを食らわす、という原理原則に基づいて、近付いてきた敵の部隊を足止めできる範囲と、それが敵味方の移動や戦闘や補給に及す影響をゲームに反映させたルール、と言えるだろう。

地形による移動や防御の良し悪し、敵の正確な居場所と詳しい内訳を知ることの難しさ、補給物資の供給ルートの確保とルートが断たれた場合の移動や戦闘への影響、後方の司令部と前線部隊との間でのコミュニケーションや情報共有の難しさ、特定の狭い場所へ多数の部隊を集めることのメリットとデメリット、退却や強行軍で疲弊した部隊の建て直しなどなど、ウォーゲームのルールには実際の戦場の原理原則や実際の軍事組織の原理原則が色濃く反映されている。これこそ、ウォーゲームが最も強く依存しているコンテクストだ。

非ウォーゲーマーの大部分、そしてウォーゲーマーの一部分が勘違いしていることだが、卓上ウォーゲームが難しいのは、ルールが多いからではない。卓上ウォーゲームのルールやシステムは、1970年代がいわばカンブリア爆発の時代で、1980年代以降は、1970年代までに生み出されたルールやシステムの流用が多く、全く目新しいルールやシステムは滅多に出てこない。そして、同じルールやシステムを用いて時代や場所といった戦場のシチュエーションが異なるゲームを新たに出版してシリーズ化したり、ひとつのゲームにシナリオ(戦場の場面設定)を山盛りにすることがものすごく多い。結果、多くのゲームで共通して採用されているルールやシステムは色々あって、そうしたルールやシステムを習得してしまえば、潜在的に多くのウォーゲームをプレイする能力を獲得したことになるし、そのような汎用的なルールのみで構成されているゲームであれば、ルールをペラ紙1枚に要約することだってできる。

しかし、卓上ウォーゲームのルールの大部分は、戦場や軍事組織の原理原則という、ゲームの外側に存在するコンテクストに強く依存している。しかも、このコンテクストはプロの軍人やミリタリーマニアや戦史ファンの間では共有されているものの、そうではない一般人の間では広く共有されていない。ゆえに、そうした一般人が卓上ウォーゲームのルールに接すると、ルールとコンテクストが結び付かないので、個々のルールが設けられている理由や目的がわからず、ルールがすんなり頭に入ってこない。だから難しく感じる。いわゆる重ゲー好きのユーロゲーマーでも、そうなる。

つまり、卓上ウォーゲームのルールは、コンテクストへの依存度が極めて高い上に、コンテクストそのものの普及度が極めて低い。お笑いで言えば、ものすごくマイナーなネタのパロディに相当する。そりゃ、ウケが悪いのも当然だ。

ウォーゲームは「知識が無いと楽しめない」というよりは、ゲームがゲーム単体で成立してなく、ゲームの外側に存在するコンテクストに強く依存していて、しかもそのコンテクストが一般的なものとは言い難いものなので、そうしたコンテクストを知らないと、そもそもルールが頭に入ってこないのだ。

先月ぶちかました「アジアの断絶」で、中華人民共和国で卓上ウォーゲームが盛り上がっていることに触れたが、理由として、大学で軍事訓練が義務化されているがゆえに、戦場や軍事組織の原理原則に通じている大学生が少なくない(=コンテクストの普及度が比較的高い)ことが一因として考えられる。大学で軍事訓練が無いどころか軍事的な研究すら忌避されていて、その上ゆとり教育でバカが増えた日本とは大違いだ。

そういうわけで、現在、「コマンドマガジン」において連載中で公式サイトでも無料で公開されている「ウォーゲーム・メカニクス」は、卓上ウォーゲームのルールやシステムを戦場や軍事組織の原理原則というコンテクストと結び付けて解説するという、極めて重要な企画だと言える。惜しむらくは、もっと早くこういう企画が出てくるべきだった。

卓上ウォーゲームとコンテクストの関係については、引き続き言いたいことがあるけれど、長くなってしまったので、続きは、来週。

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