朝鮮戦争について

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個人サイトのもうひとつのメインコンテンツである朝鮮戦争との関わりについても振り返ってみることにする。先々週にも触れた通り、父親が大阪出身で母親が北海道出身であることと、先週にも触れた通り、幼少期から図書館でノンフィクションの類を読み漁っていたことが関係している。

小学生の頃にはいっぱしに昭和史の類を読み漁るようになっていたが、その過程で、まず朝鮮戦争を知った。時は冷戦末期の1980年代、米ソ全面核戦争が1999年の7月に起きるかもしれないと思っていた小学生にとって、戦後間もない時期に第三次世界大戦に繋がりかねない戦争が日本の目と鼻の先で起きていたということが衝撃的だった。それから程なくして、戦後日本の分割統治計画も知ることとなった。

もしもこの計画が実現していたら、戦後の日本は朝鮮と同様に南北に分断され、両親が出会う機会は無く、自分は最初からこの世に存在していない。「関西弁が使えない関西人」として生れ育ち、元々アイデンティティーが不安定だった小学生にとって、このことは自分の存在意義というものを一層激しく揺さぶるものだった。ある日突然、死神のようなものが目の前に現れて、「あなたの存在は、実は間違いでした」と宣告される——という妄想に、この頃からしばしば囚われるようになった。

自分が今ここにこうして存在していることは、実は何かの間違いなのかもしれない。だったら、自分が最初から存在していない、南北に分断された上、朝鮮戦争と同様の「日本戦争」が起きてしまった「もうひとつの戦後日本」は、こっちの戦後日本と比べて、一体何がどう違っていたのだろうか?ということを、中学生の頃には頻繁に空想するようになっていた。そして、そんな空想を繰り返す内に、実際に南北の分断と南北間の戦争が起きた朝鮮半島が、「もうひとつの戦後日本」を考える上での手掛かりになる、一種のパラレルワールドのように見えてきた。だから、高校生になってから朝鮮語の独学を始めた。

とはいえ、実際に現地へ行ってみるのは、ずっと後のことになった。大学生の時の長期休暇では短期バイトで働くか、鈍行列車や夜行バスで東京まで来て国立国会図書館現代マンガ図書館大宅壮一文庫Macworldに入り浸っていて、Mac関連のハードとソフトに100万円以上を注ぎ込んでいたので、海外へ行く時間も金も無かった。

転機が訪れたのは、大学を卒業してプログラマーになって4年経った、2002年のことだった。インド人に開発の下請けをさせるという話が出てきて、社長とふたりで1週間、インドへ下見に行くことになった。

JALのMD-11で成田から10時間かけてインディラ・ガンディー国際空港に降り立つと、当時インドでは既に携帯がSIMフリー化されていたので、デリーの街中はサムスンの携帯の広告だらけだった。インド側の担当者が運転するBMWでデリーからナショナルハイウェイ48号線を4時間走ってジャイプルの仕事場に着くと、パソコンのモニターが全てLGだった。

近代以降、日本はずっと、欧米を「追っかける側」だった。しかし、いつの間にか「追っかけられる側」に回ってしまっていた。にも関わらず、日本人の大多数は依然として自らを「追っかける側」とみなしている。「追っかける側」と「追っかけられる側」では戦略が大きく違ってくる筈だが、果して、自らが「追っかけられる側」に回ってしまったという意識に乏しい日本人は、この先上手く立ち回れるのだろうか?……といったことを、夜行の帰国便でよく眠れないまま、窓際の席と空席だった隣席の2座席分を独り占めして寝っ転がり、窓越しに満天の星空を見上げながら思った。

翌2003年、韓国でボードゲームカフェの出店ブームが起きて、日本でも報道がなされた。韓国では1990年代後半からネットカフェが全国的に広まっていたが、ネトゲをぶっ通しでやり続けて死亡者が出たりしてネットカフェは不健康・不健全というイメージが広まり、その反動から主に大学周辺の学生街を中心にボードゲームカフェの出店が相次いでいた。

卓上ウォーゲーマーのはしくれとしても、「追っかける側」に回ったパラレルワールドの今を、この目で見てみたいと思った。加えて、朝鮮戦争のゲームデザインも考えていたので、そのための現地リサーチもしてみたいと思った。ウォーゲームは欧米で発展してきたが、アジアをテーマにしたゲームの開発では、アジア人が地理的リサーチでも資料の収集でも優位に立てるのだから、その利点を存分に活用するべきだという考えがあった。それに、折角インド出張でパスポートを作ったのだし、朝鮮語のスキルを実地で試してみたかった。

かくして、2003年9月の三連休の初日、関空を飛び立ち、仁川国際空港に降り立った。

それから2011年までの足掛け8年、韓国は済州島以外のほぼ全ての自治体を回った。その成果を朝鮮戦争(とベトナム戦争)に限定してまとめたものが「韓国安保観光」で、それ以外の諸々も含めた旅の記録も時系列で残している。ただ、当初はここまであちこち回るつもりではなかった。ソウルの戦争記念館に初めて入館した時、国連軍として参戦した16ヶ国それぞれの参戦記念碑の模型が展示されていて、現物が各地に点在しているということを知り、地理的リサーチを兼ねて一通り見て回ろうと思ったのだが、詳しく調べている内に他にも色々と記念館・記念碑が存在することを知り、どんどん泥沼にハマってしまった。ネットで調べた限りでは全部で600ヶ所くらいあるので、実はこれでもまだ半分くらいしか回れていない。

じゃあ、残り半分も回るのかというと、2012年以降、そもそも海外に行けていない。プログラマーを10年勤めたが、開発ツールがクッソドマイナーだったので汎用的なスキルが身に付かず、2007年に東京へ異動してからは徹夜・終電・休日出勤が常態化して疲弊してゆき、丸10年勤めたから管理者に回れと2009年に今度はホーチミン市でベトナム人による開発の下請けの管理を任されたものの、マルチタスクが苦手な自閉症スペクトラム障害ゆえにマネジメントがちっともできずに御役御免で帰国させられ、もうアイテー屋は懲り懲りと退職して、当分働きたくなかったからLCCが普及する直前のタイミングで頻繁に海外へ飛びまくり、その結果、退職時点で1000万円あった貯金を2011年の末に使い果たした。同時に、病院で発達障害の診断が下ったことで、精神的にドン底に陥った。それから8年経ったが、稼げる仕事にはなかなかありつけていない。今後「韓国安保観光」をいつ更新できるのかは、全くわからない。

それと、自らが「追っかけられる側」に回ってしまったという意識を持たないまま、戦略の転換を図らずに旧態依然とした仕事ばっか惰性で続けて日本経済をここまでダメにした全てのクソ老害ども、おまーらぜってー許さねーからな。

三週連続の暗ーい自分語りは、これで一旦、打ち止め。

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