発達障害持ちであるがゆえ、心身が適度なバランスを欠いてしまっているということで、月初から五感・集中力・身体操作・記憶力における実例を挙げてきたが、このように心身が適度なバランスを欠いてしまっていると「自他境界」もバランスを欠いてしまう。
「自他境界」とは、自分と他人の境目のことで、定型発達者であれば成長するのに伴って割と早い段階でこれを認識して「他人は他人、自分は自分」という割り切りが可能になるが、発達障害者はこの認識が遅く、割り切りが上手くない。
五感が鋭すぎて、集中力が偏っていて、短期記憶が弱いと、現時点で五感で認識できる物事と長期記憶に保管されている物事が発達障害者にとっての世界の全てになってしまう。
それゆえ、10代前半までは私物、それも成長と共に不要になる筈のものがなかなか捨てられなかった。前年度までの教科書やノートやプリントを綴じたファイル、親に買ってもらっていた学研の科学と学習のバックナンバーと毎号の教材付録は勿論のこと、歯医者で抜いた乳歯までも全部保管していた。
「自分の所有物」と「自分自身」が極端に一体化してしまっていて、私物を捨てるということが自分自身の存在の否定のように思えてしまっていた。そうした私物の多くが実は大量生産品で同種のものが他に幾らでもある、ということに気付いたのは10代後半になってからだった。
逆に、入手したばかりの物を目の届きにくい所に移動させたりすると、途端に存在そのものを忘れてしまったりする。
実際、学生時代はプリントの類を貰っても鞄や机の中にいつまでも入れっぱなしにしがちだったし、今でも外出先で入手して帰宅後すぐに鞄から出さなければならない筈の物を出し忘れてしまうことは度々ある。他の発達障害者の場合、こうしたミスを防ぐために透明なビニールバッグしか使わない人もいたりする。
もう一つ事例を挙げると、(以前にも書いたことだが)中学から高校の頃にかけて家族でしばしば麻雀を打っていた時に、目に見える牌(自分の手牌や場の打牌や副露やドラ)に基づいて、見えない牌(他家の配牌や待ち)を推測することができていなかった。というより、そういう推測をすることが麻雀の基本であること自体わかっていなかった。当然、やたらと放銃が多かった。
このように、「ずっと覚えている事と今まさに見えている事だけが全て」だと、他人の考えや思惑などという不可視の物事は認識の範囲外になってしまう。
だから、10代前半までは、自分と他人の頭の中の違いは知識の総量だけだと思っていた。小学校に進学する前から図書館通いが習慣になっていたので、大人>自分>同級生、という風に、単純に頭の中の知識の総量が多いか少ないかだけが異なっていると思っていた。
しかも、同級生が知っている事というのは受け身の姿勢でも得られるような知識ばっかりで、それよりも自ら能動的に動き回って得られる知識の方が価値が高い、とまで思っていた。知識の総量だけでなく内訳も大きく異なっていて、だからこそ同じ新規の情報に接しても人によって受け取り方が異なってくる、ということに気付いたのは10代後半になってからだった。
こんな認識で、他人と上手く関われる訳が無い。発達障害はコミュニケーションの障害、と言われる理由もここにある。
そして、このように自他境界が確立してなく、周囲の関西弁を話す同級生と日常生活で上手く関われないと、書物やラジオといったメディアで届けられる標準語に接する機会の方が圧倒的に多くなり、結果、関西弁が身に付かなかった。生まれは豊中、育ちは西宮・尼崎・茨木と、ずっと摂津国で生まれ育ってきたのに。
「自閉症は津軽弁を話さない」という研究書が2017年に出版されたことによって、地方在住のASDは方言を話さないことが多いということが広く知られるようになったが、全く同じパターンだった。
関西で生まれ育っていながら関西弁が使えないと、それだけで浮いてしまう。子供の世界なら尚更で、学生時代に周囲の同世代とのコミュニケーション不全が解消されることは無かった。ただでさえ他人の考えや思惑が推測すらできないのに加えて、地方在住というのが更に災いしてしまった。
同世代以外とのコミュニケーションも上手くできなかった。高校時代に最も長く勤めていたバイトは新聞の朝刊配達で原則として一人で働くのに対して、大学時代に最も長く勤めていたバイトはコンビニの夜勤だったけれど、客の意図が読めずにトラブルになることが度々あった。接客業は向いていないと思った。
1998年に大学を卒業して半年後にプログラマーの職に就いたが、ソフトやハードの納品で一人で客先を訪問したり、社内で問い合わせの電話に対応したりすると、しばしば揉めてしまった。丸十年勤めたのを機に今後は管理職をやれ、と、2009年にベトナムで設立された新規の開発拠点に送り込まれ、現地採用したてのベトナム人によるソフト開発を進捗管理することになったが、当然、大失敗してしまった。
日本人相手ですらコミュニケーションが上手くできないのに、ましてや10人前後の外国人一人一人の日本語能力の水準や仕様の理解度なんて全く把握できない。しかもベトナム人は日本人並みに本音と建前が乖離していて、テトの休暇が明けても祖父母の看病が必要になったと称してそのままバックレたりする。
結局、テトを間に挟んで1ヶ月経ってもソフト開発の進捗は本社の要求水準を満たせず、御役御免で他の日本人と交替、ということで意気消沈したまま帰国することになり、それから更に3ヶ月後に退職した。以来、もうアイテーと正社員と管理職は懲り懲りと、非正規雇用の下っ端仕事でしか働いていない。