発達障害持ちであるがゆえ、心身の諸々不具合が日常生活のQOLに悪影響を及ぼしている事例として、先週は感覚過敏を挙げたが、続いて挙げる不具合は「過集中」。
発達障害の事例として「注意散漫」が挙げられることが多いけれど、あれは発達障害の中でもADHDの話で、ASDの場合は逆に集中しすぎる傾向が強い。
集中力が高いのっていいじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、度を超えた集中力というものは往々にして嗜好や思考の偏りに繋がり、関心のありなしでモチベーションに極端な差が生じてしまい、四六時中、関心のあることにだけ頭の中が支配されてしまいがちになり、それがQOLに悪影響を及ぼす。
小学5年の2学期に尼崎から茨木へ引っ越した頃、顎の関節が鳴ることに気付いた。調子に乗って四六時中コキコキコキコキ鳴らし続けていたら、成長期だったこともあって左右の関節の発育バランスが崩れてしまい、への字口になってしまった。
ただでさえ感覚過敏による凝視から肩凝りになりがちなのに、その上への字口で噛み合わせも悪いから、特に疲れている時にメシを食うと口の中をめちゃくちゃ噛みまくるようになってしまった。だから、疲れている時は食事すら満足に楽しめない。
中学校に進学すると、進研ゼミのノベルティでAMのポケットラジオを手に入れたこともあって、深夜ラジオに耽溺した。
実家は鉄筋コンクリの集合住宅で、自室は西向きだったから、南の高石や堺から送信されるABC・MBS・OBCの電波は雑音だらけで満足に聞き取れず、唯一明瞭に聞こえたのはKBSで、その次がラジ関だった。
だから、サイキックは数回しか聞かず、ヤンタンは全く聞かなかった。聞くのはもっぱら平日の場合はいぱぁナイトで週末がラジメニアだった。
そして、KBSはオールナイトのネット局だったので、自然とそっちも聞くようになった。タイマー録音機能付きのCDラジカセを家族共用で買うまでは生で3時や5時まで聞くしかなく、当然、昼間の学校生活は居眠りばかりになってしまった(加えて、ポケットラジオはもっぱら付属の片耳イヤホンで聞いていたので、今でも耳の穴は右の方が少し大きくなってしまっている)。
ギリギリの成績でなんとか駅前の府立高校に合格して進学すると、定時制もあって全日制の生徒は夕方には下校しなければならず、周辺に書店が複数あったので、帰宅前に雑誌を立ち読みするのが日課になった。2年の2学期には週刊・旬刊・隔週刊・月刊・隔月刊・季刊すべて合計すると1ヶ月に100冊以上乱読するようになっていた。
当然、またしても学業に支障を来してしまい、(担当教師との相性の悪さもあって)物理で赤点を取ってしまって3年の夏休みに補習を受ける羽目になり、大学入試も現役では合格できなかった。
一浪を経て立命館大学の文学部に合格して進学すると、発達障害ということには気付いていなかったものの、極端にのめり込みすぎてしまう自らの性分を自覚するようにはなっていた。だから、なるべく興味の対象を分散化して、あっちこっちに好奇心のアンテナを意図的に広げようと考えるようになっていた。
しかし、そうした方針は語学学習においては裏目に出てしまった。東洋史学専攻だったから支那語と朝鮮語の履修は当然として、英語は必修ではないから、そのルーツであるゲルマン語とラテン語も押さえておきたいと、ドイツ語とラテン語まで履修してしまい、その上、国際関係学部でのみ履修できるアラビア語までモグリで受講した。
当然、肝心要の支那語と朝鮮語の学習は中途半端になってしまった。語学学習こそ、過集中を活かしてターゲットを絞らなければならなかったのに、全く逆のことをやってしまった。
その一方で、今度はMacに耽溺した。高校生の頃に編集者を志すようになったので、DTPの技能を身に着けようと文学部棟の近くにあったオープンパソコンルームでMacに触れた結果、講義をサボりがちになった。朝の9時から夜の9時まで12時間ぶっ通しでマウスを使い続けて右肩が筋肉痛になったりすることもあった。
生活はMac最優先になり、冬季休暇には鈍行列車や夜行バスで東京まで行って幕張メッセのマックワールド詣でをするようになった。更に、Macで何かを作るよりもMacで動作するソフトウェアをプログラミングすることの方に興味が移ってゆくとMOSAの学生会員になり、当時、初台のオペラシティにあったアップルジャパンの本社で数ヶ月おきにMOSAが主催していた学生会員向けの開発セミナーに数少ない関西勢として参加するようになった。
そうした、年に数度の東京遠征の旅費や、Macの本体や周辺機器、アプリや専門書の購入費として、卒業までにバイト代を100万円ほど突っ込んだ(ウィキの「日本卓上ウォーゲーム略史」を読んだ人だとちょっと引っ掛かるかもしれないので、念の為に補足しておくと、大学時代の東京遠征は幕張メッセやオペラシティ、そして秋葉原のT-ZONEミナミやザコンのMac館が最優先で、余った時間で国会図書館や書泉やポストホビーにも寄っていた)。
加えて、大学在学中はキャンパスが京都市内ということもあって、天下一品の京都市内の店舗を全て巡回していた。毎日食い続けていたら吹き出物がひどくなってしまって、それ以降は行く頻度を下げたけれど。
20代ではインターネットにも耽溺して、個人サイトを開設したり2ちゃんねるのスレッドを片っ端から読み漁ったりした。20代末から30代半ばにかけては転勤で東京に引っ越す一方、朝鮮戦争の史跡巡りなどで連休の度に韓国全土をほっつき歩いた(LCCの普及前だったから航空券代がかなり高くついた)。30代後半から40代前半にかけてはスマホとSNSに耽溺した。そして40代後半はコロナ禍の中、大っぴらに遠出できない鬱積を抱えながら都内のサウナを回り、多摩地区の食べ放題の店で暴飲暴食を繰り返した。
振り返ってみれば、いつも、ずっと、何か特定のことに対して、睡眠時間や貯金を削ってまでのめり込みすぎていた。しかも、そうしたのめり込みによって少なからず知識や経験を得ても、それは収入やQOLの向上には繋がらなかった。
発達障害者は物事の優先度がつけにくく、依存症になりやすい、という特徴も、こうした過集中が大きく関わっている。幸か不幸か、父方の家系の下戸が遺伝して酒はあまり飲めないし、煙を吸っても腹の足しにならないから菓子パン食ったほうがマシ、というしみったれた理由で煙草にも手を出さなかったけれど、ギャンブルや風俗に接する機会があったら、もっと悲惨なことになっていたかもしれない。