マンセー突撃という幻

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2019年に大木毅「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」がベストセラーになるまで、日本における独ソ戦の知識はほぼ1970年代の水準で停滞していたと言えるが、同様のことは朝鮮戦争に関しても言えるだろう。1977年に文藝春秋から全3巻ハードカバーで刊行された児島襄「朝鮮戦争」(1984年に文庫化)で描かれたイメージがいまだに根強い。

児島本に出てくる朝鮮戦争のエピソードでとりわけ有名なのが、釜山橋頭堡の戦いで北朝鮮軍がバンザイ突撃ならぬマンセー突撃を敢行した、という話だろう。日本で商業出版された朝鮮戦争ものの卓上ウォーゲームとしては現時点で唯一の作品である「朝鮮戦争」でもルール化されていて、北朝鮮軍プレイヤーが実行を選択できたりするが、実はこのマンセー突撃云々の話、どうやら日本でのみ流布しているらしく、信憑性が疑わしいのだ。

疑いを抱くようになったのは2015年に遡る。ちょくちょく日本へ来る度に卓上ウォーゲームを買っている韓国人がいて、何度か東京で卓上ウォーゲームを販売している店へ連れて行ったのだが、そうして購入した「朝鮮戦争」のレビューで、マンセー突撃について「북한이 그런짓도 했는지는 모르겠지만(北韓がそんなこともしたのかはわからないけれど)」と書いているのを目にしたのがきっかけだった。

韓国人(しかもウォーゲーマー)がマンセー突撃を知らないのって、何か変じゃね?と思ったので、改めて調べてみたのだが、その結果、米軍の公刊戦史にも韓国軍の公刊戦史にも、そんな話は出てこないということがわかった。

朝鮮戦争に関する米軍の公刊戦史「South to the Naktong, North to the Yalu」は1961年に刊行され、現在は米陸軍の公式サイトで全文公開されていてPDF版もタダでダウンロードできる。「The Korean War」や「Korea: The Forgotten War」といった、アメリカで作られた朝鮮戦争ものの卓上ウォーゲームでも参考文献としてルールブックでクレジットされているが、本書の中に、マンセー突撃の話は出てこない。

朝鮮戦争に関する韓国軍の公刊戦史「한국전쟁(韓国戦争)」は1995年に上巻、1996年に中巻、1997年に下巻が刊行され、現在は国防部軍史編纂研究所の公式サイトでPDF版がタダでダウンロードできる。各巻を2冊に分けて全6巻にした和訳も2000年〜2010年に刊行されているが、やはり、マンセー突撃の話は出てこない。

それに加えて、Googleで「korean war manse charge」で検索したり「한국 전쟁 만세 돌격(韓国戦争万歳突撃)」で検索しても、それらしき記録が出てこないのだ。

児島本以外の日本の書籍では、1966年〜1973年に陸戦史研究普及会が編纂して原書房から全10巻で刊行された「陸戦史集 朝鮮戦争」にはマンセー突撃の記述が少しあるものの、主要な執筆者でなおかつ日本における朝鮮戦争研究の第一人者である佐々木春隆先生が単独で執筆して1976年〜1977年に同じく原書房から全3巻で刊行された「朝鮮戦争 韓国篇」には出てこない。

こうしたことから、マンセー突撃云々は全くのガセネタとまでは言い切れないが、実際にあったとしても極めて局所的な出来事だった可能性が高い。バンザイ突撃並みに頻発していれば、米軍や韓国軍も記録していて、ネットでも容易に確認できる筈だ。

追記
信憑性が疑わしい児島本だが、まずいことに、21世紀に入ってから支那語版が翻訳出版されている。デイヴィッド・ハルバースタムの遺作にして朝鮮戦争での中華人民共和国の介入を扱った「The Coldest Winter」が2010年に重慶出版社から「最寒冷的冬天:美国人眼中的朝鮮戦争」という題名で翻訳出版されたのだが、重慶出版社はその後、「最寒冷的冬天」を叢書名にして白善燁の「군과 나: 6.25 한국전쟁 회고록(軍と私:6.25韓国戦争回顧録)」を翻訳した「最寒冷的冬天Ⅱ:一位韓国上将親歴的朝鮮戦争」や何楚舞・鳳鳴・陸宏宇「最寒冷的冬天Ⅲ:血戦長津湖」、趙勇田・牛旻 「最寒冷的冬天Ⅴ:板門店談判紀実」と共に児島本を「最寒冷的冬天Ⅳ:日本人眼中的朝鮮戦争」という題名で2015年に翻訳出版している。

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