「城」というと、日本では堀や石垣や天守が連想されるが、そのような形態の城のルーツは中世の山城に遡る。基本的に、武士が敵対する勢力との戦いの際に立て籠って援軍を待つ軍事拠点、という扱いだった。
一方、支那における「城」とは、古代から一貫して、都市をぐるりと囲んで外敵の侵入を防ぐ高い城壁だった。近代以降、そうした城壁の多くは取り壊されてしまったが、西安(かつての長安)など、一部の都市では今もなおそのような「城」が残されている。加えて、そうした城壁で囲まれていたがゆえに、現代でも支那語では都市や町を「城市」「城鎮」と呼ぶ。郊外は「城郊」、旧市街は「老城区」、「シティーハンター」は「城市猟人」だ。
朝鮮の水原華城も、そうした「ぐるりと囲む城壁」だったし、ベトナム語で都市を意味する「タイン・フォー(thành phố)」は、漢字で書けば「城舗」で、ホーチミン市は「城舗胡志明」だ(ベトナム語に限らず、東南アジアの諸言語は後ろから前に修飾する)。
平安京(現在の京都)は長安をモデルに開発されたが、城壁は作られなかった。どこまでも大平原が広がる黄河流域と比べて、山という天然の防御壁だらけの日本では、基本的に都市周辺の峠道が防御の要になるがゆえ、都市そのものを城壁で囲むことは費用対効果が低かったと言えるだろう。
江戸時代の城下町と支那の城市を比較して、日本では町が城を囲んでいて、支那では城が町を囲んでいた、とも表現できる。日本の、町を囲まないような種類の城は、支那語では「城堡」と呼ぶ。そのような城堡を中心として、人口の増加に伴って時計回りにグルグルと都市開発が進められたのが、江戸だった。これは、最初に城壁という外枠を作ってしまう支那の城市よりも拡張性に優れていると言えるが、反面、道路網が複雑になってしまう。実際、現代の東京でもまっすぐな道路や繋がった環状道路は(特に山の手では)少ない。
このような、日本と支那での「城」のイメージの違いは、現代でも住宅の形態に継承されていると言えるだろう。日本の一戸建てはしばしば、盛り土と石垣で周辺よりも土台を一段高くしていたりするが、これなどは典型的な日本の城のイメージだろう。「一国一城の主」などという表現もあるし。
他方、支那における「都市を囲む城」というイメージは、集合住宅に継承されている。支那の集合住宅は基本的に、塀でぐるりと囲まれていて警備員が常駐する出入口からしか出入りできないようになっている。支那に限らず、かつて台湾で集合住宅を訪問した時も、やはり塀で囲まれていた。加えて、支那でも台湾でも香港でも、集合住宅の窓には基本的に鉄格子が嵌められていて、その上、玄関で外履きと内履きを替えるタイプの住宅の場合、外部と玄関の間、玄関と居住スペースの間の両方に鉄製の扉が設けられていて、甕城を連想させる。日本の集合住宅よりも防御が固い。