初めて「ファミコンウォーズ」をプレイした時、飛行ユニットが登場しないソラマメジマで高射砲ユニットを作ってしまった。高射砲、と言うくらいだから山地にいる地上ユニットに対しても有効なのだろうと思って作ってしまったのだが、全く役に立たなかった。要するに、ロンメルが悪い。
事程左様に、ゲームというものはルールを把握しないまま始めると、大抵の場合、ロクなことにならない。
現実なんてクソゲーだ、と言うけれど、そのクソゲーもルールを把握していなければ、更に輪をかけてひどいことになる。実際、ひどいことになってしまった。
俺が好きなこと・やりたいことというのは、ことごとくニッチな需要しかなく、マネタイズできるようなものではない。その上、カネも時間もかかる。
そして、そんな風に「やりたいこと」と「稼げること」が一致していない場合、なるべく早く不労所得をどんどん増やして自由に使えるカネと時間を増やさなければならなかったのだが、そんなルールに気付くのも遅かった。
大学時代、ジョブズ復帰前のアップルがドン底だった時にMacを使い始めて、バイト代を100万円くらいMac関連に注ぎ込んでいたのにアップルの株は買っていなかった、という話は以前にも書いたけれど、実はその後、株に興味を持ったことが(一度だけ)あった。
1998年に大学を卒業した後、プログラマーとして働くようになり、2001年に貯金が100万円を超えた頃、日本マクドナルドが上場した。それで、ちょっと株を買ってみようかと思ったのだが、思った矢先にBSE問題が起きてマクドの株価が急落した。
うわ〜、やっぱ株ってギャンブルだわー、と思って、以後、株には全く手を出さなかったのだが、そんな派手な銘柄でなくても地味ながらコツコツと業績を上げている企業は幾らでもあるのだから、全く株を買わないという選択は間違いだった。
株だけではない。プログラマーの仕事を丸十年で辞めた時点で貯金は1000万円あったのだから、不動産とか貴金属とか高級腕時計とかを買うカネは充分あったのに、そうした投資に全く手を出さなかったのは失敗だった。低金利がずっと続いていたのだから尚更だった。
加えて、自己投資として資格や免許の類を増やさなかったのも失敗だった。そうした資格や免許は多ければ多いほど、食いっぱぐれにくくなるのに。
そして、プログラマーを辞めてから2年以上、全く働かずに海外をあちこち回っていたのも失敗だった。当時はサバティカルを気取っていたのだが、職歴に年単位でブランクが生じると、その後の仕事選びで大きなマイナスになるということに気付いていなかった。3ヶ月とか半年でも、チョコチョコと職歴を挟んでおくべきだった。
そうしたクソゲーのルールを長い間把握していなかったのは何故かといえば、そうしたルールの知識は座学で得られるものではなく、周囲の人々(特に同世代)との関わりで得られるものだからだった。これはASDにとっては容易なことではない。
物心付いた頃から、周囲の同世代との相性は悪かった。西宮の幼稚園では他の園児とは没交渉で、年長組の時に尼崎へ引っ越すと、中央図書館(まだ尼崎城址公園に移転する前でアルカイックホールや総合文化センターに隣接していた)へ通うようになった。
小学校に進学すると、同級生の幼稚さに閉口した。教室の後方にランドセルの収納棚が設けられていたのだが、放課後になると他の生徒たちが一斉に棚へ殺到してランドセルを片っ端からボンボン床に放り投げて山を作り、そうしてから自分のランドセルを探し出していた。乱暴極まり無いやり方で、人間未満の猿にしか見えなかった。
そうした野蛮で幼稚な同級生と机を並べて1年2年経つと、こいつらが知っていることは受け身の姿勢でも得られるような知識ばっかりで、図書館とかで自ら能動的にならなければ得られないような知識はロクに持っていない、と思うようになった。
そんな風に周囲の同世代を見るようになって、ますます独学にのめり込んでゆく一方、よくある同級生との関わりは乏しいままになってしまった。
代表的な事例を挙げると、マンガ雑誌を回し読みすらしなかった。雑誌そのものをほとんど図書館でしか読まなかったから、マンガ雑誌は2ヶ月毎に床屋へ行く時の待ち時間くらいにしか読まなかった。だから、連載マンガが後で個別に単行本化されるということを知らず、他所の家で「Dr.スランプ」の単行本を読んだ時に、作中で時々「ジャンプ」という名前の本が出てくる理由がわからなかった。
加えて、純然たる関西人ではない(母方の家系が北海道)ということもあってか、関西人としての文化的基盤のようなものもあちこち抜け落ちていた。
これも代表的な事例を挙げると、吉本新喜劇をテレビですら全く見なかった。土曜日の半ドン授業から帰宅すると親が関西テレビの「ノックは無用!」を見ていて、そのままチャンネルを変えることなく「ノンストップゲーム」を見ながら母が作ったソース焼きそばを食う、というのが典型的な土曜の昼下がりだった。だから、同じ時間帯に毎日放送が中継していた吉本新喜劇は全く見なかった。
中学時代は丁度「4時ですよ〜だ」の放送期間と重なっていたが、やはりほとんど見なかった。ただでさえ関西弁が使えないのに、周囲の同世代が学校以外で見聞きしているものの多くを履修していなかった。
そんな風に、関西の子供としての文化的基盤のようなものが著しく欠落していたから、小学5年の2学期で茨木に引っ越して中学校に進学しても、府立高校に進学しても、同級生との関わりは乏しいままだった。
結果、生まれも育ちも摂津国でありながら、普通の関西人が学生時代に経験するようなことの多くが、スッポリと抜け落ちてしまっていた。その上、周囲の大人は親も含めて、そうした欠落に気付いていなかった。
こうして、普通の人なら周囲の人々との関わりの中から自然と得られるような知識を著しく欠いたまま20歳を迎えたことで、クソゲーは無理ゲーになってしまった。