「日本卓上ウォーゲーム略史」あとがきのあとがき

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とりあえず、冒頭に「War-Gamers Advent Calendar 2022」へのリンクを張っておく。

今年秋、ウィキの方で投稿した「日本卓上ウォーゲーム略史」は、11月末時点で日本語版が3000PVを超え、英語版も200PV、支那語版も150PVを超え、投稿の告知ツイートは藤浪智之先生・速水螺旋人先生・磨伸映一郎先生などなど斯界の著名人の方々にもリツイートされ、おおむね好評を博したようだが、略史と銘打ったこともあって、あとがきも比較的手短かに締め括っていたので、改めて細々とした追記をダラダラと書き連ねることにする。

あとがきで書いた通り、元々、2006年から2015年まで運営していた旧サイトで2010年に海外へ向けて英語で「A Brief History of the Unplugged Wargaming in Japan」を公開していたのだが、それを作ったきっかけは2003年に遡る。

当時、韓国でボードゲームカフェの出店ブームが起きていて、それが日本でも報道されていた。韓国では元々、「マンガ房(만화방)」「ビデオ房(비디오방)」といった、特定の娯楽を室内で有料で時間貸しする「○○房」という商売があって(カラオケは「歌房(노래방)」)、1990年代後半にはインターネット回線に接続されたパソコンを備えた「PC房(PC방)」の出店ブームが起きていたのだが、ネトゲをぶっ通しでやり続けて死ぬ者が出たりして、PC房は不健康・不健全というイメージが付いて回り、その反動から2000年代に入ると「ボードゲーム房(보드게임방)」が主に大学周辺の学生街に出店していた。

そうした報道に接して、これからアジアの新興国でも卓上ウォーゲームがプレイされたり作られたりするようになる筈だと思い、アジアの卓上ウォーゲーム事情の調査を始めて、2009年〜2010年には実際に各地の卓上ウォーゲーマーとも会ってきて、レポートを「コマンドマガジン」で連載したのだが、その過程で日本の卓上ウォーゲームの現状と来歴を海外へ発信することを考えるようになった。

略史の冒頭でも触れた通り、卓上ウォーゲームは1960年代まではもっぱら欧米だけでプレイされていたが、1970年代以降、欧米以外にも広まっていった。そして、日本は長年、非欧米圏における最大のマーケットだった。

卓上ウォーゲームは依然として、欧米の戦場をテーマに欧米人がデザインしたゲームの割合が高い。だが、卓上ウォーゲームは欧米人だけのものではない。欧米以外の戦場をテーマに、欧米人以外がデザインしたゲームがもっと増えてもいいし、とりわけ、アジアの戦場をテーマにアジア人自身がデザインしたゲームがもっと増えてほしいと思った。

そして、日本における「先行事例」は、成功も失敗も含めて、必ずやアジアの新興国の卓上ウォーゲーマーに資することになり、アジアの新興国で卓上ウォーゲームを隆盛させることに繋がるだろうと思った。

当時、クリント・イーストウッド監督の映画「グラン・トリノ」を観たことも、多少なりとも影響している。アジアの若い世代に何らかのレガシーを手渡すのが、アジアの先進国で生まれ育ってきた者の務めだと思った。だから、まずは英語で、日本の卓上ウォーゲームの来歴を書いてみることにした。

……というのが、元々の執筆の動機だった。だから、海外向けに英文で略史を書くことに加えて、日本の卓上ウォーゲームのルールの英訳にも取り組んで、BoardGameGeekでPDFを公開することにした。「ドイツ戦車軍団」のルールに至っては英訳に加えて支那語訳と朝鮮語訳も公開したが、まさか人民解放軍でもプレイされることになるとは思わなかった。

それから10年以上が経ち、重い腰を上げて全面改稿と日本語版の作成を思い立ったのは今年の9月に入ってからだった。当初は1ヶ月くらい時間をかけて10月の三連休直前に公開するつもりだったのだが、いざ書き始めると10日くらいでサクッと書き上げられたので、前倒ししてシルバーウィーク直前の公開となった。

そこから、翻訳しやすい順番に朝鮮語版→英語版→支那語版を更新した。元々、9月と10月の連休は信越本線の跡を辿ったり水郡線と(全面再開した)只見線を乗りつぶしたりするつもりだったのだが、ことごとく天気が悪かったので、これらの翻訳作業に専念することにした。年末までに全ての翻訳を済ませるつもりだったが、これもかなり前倒しできた。

さて、ここから先は、ゴシップ以外で略史に書かなかったことについて。

古参ウォーゲーマーなら、ホビージャパン以外にも木屋通商などがアバロンヒルのボードウォーゲームを輸入販売していたことを知っているだろうが、こうしたホビージャパン以外のディストリビューターの名前を挙げなかったのは、具体的にいつからいつまでボードウォーゲームの輸入販売に関わっていたのかが特定できなかったから、ということに尽きる。

そして、こうした事例と出会う度に、「自前のメディアを持っている」ということこそがホビージャパンの強みだ(った)ということを痛感させられた。誰もがネットで自前のメディアを持てるようになった今、そうした強みは相対的に下がってしまってはいるけれど。

明確な証拠が得られなかったので書かなかったが、1984年にホビージャパンがアバロンヒルとの間に完全日本語版のライセンス出版契約を交わした件は、結構重要な転機だったのではないかと個人的には思っている。おそらく、当時のホビージャパンは今後も円安傾向が続くと考えてそうした契約を交わしたのかもしれないが、翌1985年のプラザ合意によって為替は一転して急激な円高になってしまい、さんざん手間を掛けて完全日本語版をライセンス出版しても、小売店が独自に輸入するオリジナルの英語版には(少なくとも価格面で)全く太刀打ちできなくなってしまい、その結果、ホビージャパンによる完全日本語版のライセンス出版は、ルールの分量が多くてオリジナルの英語版より値段が高くても日本語版を求める人が多いゲーム、すなわちSPIのビッグゲームやASLやTRPGにシフトしていったのではないか?という仮説を、個人的には立てている。明確な証拠は得られてないけど。

ニフティサーブについては、クレカを作ったのが大学卒業後の2005年で、結局一度もログインできなかったから、実際の内容については全く語れない。大学時代、でんでんタウンのソフマップで買った中古のMacをモデム経由で家のアナログ電話回線に繋ぎ、クラリスワークスの通信書類で何度か最寄りのアクセスポイントに接続してはみたものの、当然、ログイン画面から先には進めず、いつもそこで無念の思いを抱えながら接続を切っていた。

タカラの「デュアルマガジン」やダグラムものなどを紹介しなかったのは、活動期間が短くて出版点数も少なかったから、ということに尽きる。とはいえ、「スタンレー高原の攻防」などは、ミニチュアウォーゲームとボードウォーゲームの中間的なゲームとしては「ワールドタンクバトルズ」よりも20年近く出版が早かった先駆的な試みだったと言えるだろう。近年、バンダイifシリーズの再評価の声が高まっているので、タカラのそうした先駆作も再評価されるべきだとは思う。

タカラよりも更に出版点数が少なかった天下布武も、やはり紹介を見送った。大日本絵画が模型雑誌「モデルグラフィックス」の姉妹誌として隔月刊で発行していた「ゲームグラフィックス」は、コロナ禍で国会図書館へ行きにくくなり、詳しい内容が確認できないので紹介を見送ったが、これについてはひょっとすると今後、追記するかもしれない。

そして、同人誌・同人ゲームに関しては、日本の卓上ウォーゲーム史を語る上で商業出版と同じくらい重要な存在ではあるものの、商業出版よりも更に全体像が把握しにくいので、紹介は最低限度に留めたが、本来なら「アウトバーン」や「嵐を呼べ」や「SLGamer」などを紹介しなければならなかったとは思う。とはいえ、そのためにはまず、主要な同人誌・同人ゲームの総目録を作る所から始めなければならないと思う。おそらく、商業出版物の総目録よりも遥かに手間がかかるだろう。

次の寅年は還暦だが、それまで生きている自信は無い。当然、2032年に増補改訂できる自信も無い。

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