文化の差異は、時としてとんでもない誤解をもたらす。「めぞん一刻」のアニメ版がフランスで初めて放送された時、こたつに入っている一刻館の面々を見たフランス人の視聴者が「全員、足が無い」と勘違いしたという逸話が残っている。この逸話が関係していたのかはわからないが、パリのバスティーユの近くで営業していた日本マンガ専門のマンガ喫茶「うらばす」にはこたつが設けられていた(全くの余談だが、イランやアゼルバイジャン・アフガニスタン・タジキスタンにはこたつと同様の暖房器具が存在する)。
この程度の誤解であれば笑って済ませられるかもしれないが、笑って済ませられない誤解も、時にはある。黒澤明と共に日本映画の名監督と並び称される小津安二郎の生誕100周年を記念した国際シンポジウムが2003年に東京で開催された際、ポルトガル人の映画監督が「晩春」の終盤近く、京都の旅館で父親と娘が枕を並べて眠る場面が近親相姦を意味していると発言して議論になった。
えええええ!?と思った者も少なくないだろう。だが、実はこういう解釈(というより誤解)は、東洋と西洋での親子の睡眠に関する文化の差異が関係している。
西洋では、子供はおおよそ2歳くらいで親とは別の寝室をあてがわれ、親とは別々の部屋で眠る。一方、東洋ではもっと長い期間、親子がいわゆる川の字になって、同じ部屋で枕を並べて眠る。その上、子供が成人して親離れした後も、盆正月などで孫を連れてひさびさに帰郷した時には大部屋で二世代・三世代が枕を並べて眠ることも珍しくない。個人的にも、東成の父方の実家や旭川の母方の実家でそういう経験は何度もあった。
東洋人も西洋人も、不眠症でもない限り、眠る。だが、誰もが眠るがゆえに、眠り方にも文化の差異が存在するということは、見過されやすい。件のシンポジウムでは、こうした東洋と西洋での親子の睡眠に関する文化の差異について、参加者が誰一人として知らなかったので、議論は終始、噛み合わなかった。自分も相手も自明のこととして扱う物事にこそ、時として意外な文化の差異が潜んでいて、更にはとんでもない誤解をもたらすこともある。