早く行きたければ、一人で行け。

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こんなことわざが、アフリカにはある。

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.
(早く行きたければ、一人で行け。遠くまで行きたければ、皆で行け。)

けれども、俺はそもそも最初から、一人で行かざるを得なかった。

関西で生れ育っていながら関西弁が使えないと、それだけで浮いてしまい、子供の世界なら尚更だった、ということは、以前にも触れた。加えて、自閉症スペクトラム障害(ASD)であることが、言語以外でも周囲の同級生との間で、様々な障壁になった。

小学校では、椅子にこっそり画鋲を置いたり、引っ張った輪ゴムを不意打ちで素肌に当てるようないたずらがしばしば横行していたが、感覚過敏なASDにとって、そうした同級生の所業は激痛を引き起こす洒落にならない蛮行で、それゆえ、教室は危険極まりない場所だった。

これまたASDらしく、落ちこぼれならぬ浮きこぼれだったから、情報に対する感度も違っていた。周りの連中がみんな知っている事というのは、実は受け身の姿勢でも得られるような情報ばっかりで、そんな情報には大して価値は無く、知っている人が少ない情報の方が情報として価値が高いのだから、自ら能動的に動き回って、そうした希少価値の高い情報を手に入れてゆこう、と、小学生の時点で思った。今にして思えばめちゃめちゃ嫌みったらしい考え方だが、実際そう思ったのだから仕方が無い。

そんなこんなで、同じ日本語を使っている筈なのに、周囲の同級生に考えや想いが伝わらないという感覚は、小学生の頃からあった。中学校に進学しても、それは全く変らなかった。

中学三年の時、休み時間の男子同士の雑談で、今どんなマンガに注目しているか、という話になった。10人弱の中で他の者が全員、口を揃えて「ドラゴンボール」と答えたのに対して、一人だけ「沈黙の艦隊」と答えて、全く話が通じなかった。その時、あぁ、こいつらと俺とでは、見えている世界が全く違うんだ、と思った。

小学生の分際で復刻版の「のらくろ」を読み、中学生の分際で「ヤングマガジン」や「モーニング」を読み、高校生の分際で「ガロ」や「別冊宝島」や「噂の眞相」を読むようでは、周囲の同級生とは全く話が噛み合わず、趣味嗜好を同じくする者など、一人もいなかった。

大学に進学しても、状況は全く変らなかった。学内のMacを使い倒して、セキュリティーソフトが入っていないことをいいことに開発環境を勝手にインストールしたりしていたけれど、当時はまだMacもWinもUnicodeをOSレベルでサポートしていなかったから、JISコードに無い漢字が頻出する漢籍を扱う東洋史学専攻では、教授陣も含め、周囲にパソコンを使う者など、他に誰もいなかった。サークルも、たった一人のシミュ研だった。

卓上ウォーゲーム、ノンフィクション、学生運動、トイガン、ミニコミ、朝鮮戦争、サブカル、DTP、古書店巡り、Macでの多言語環境構築とプログラミング、インターネット……どれもこれも、一人で調べて、一人で探して、一人で行かざるを得なかった。

若い頃に、周囲の同級生と良好な人間関係を築けなければ、その後もずっと、人付き合いは決して上手くはならない。ASDなら尚更だ。小・中・高・大と、同級生なんか、誰とも、二度と会いたくなんかない。時たまSNSで接触してくる者がいても、速攻でブロックする。

今までも、そしてこれからも、一人で道無き道を行くしかない。ストレスの溜るやり方だから、どのみち長生きなんてできやしないし、したくもない。そして、俺が一人でくたばった後、人当りの良さくらいしか取り柄の無い奴らが、お手々繋いで遠くまで行きやがるんだ。くそっ。

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