先週に引き続き、我が「いちきゅーきゅーぺけ」の話。大学に進学して20歳になって以降、1泊以上の一人旅に出るようになった。その最初の一人旅は阪神大震災の約1ヶ月後、1回生の後期試験終了直後のことで、主な目的地は旭川の母方の実家と、マックワールド・エキスポが開催される幕張メッセだった。
母方の実家(と北海道各地に住む母方の親族の家)は小学生の時に家族で何度も訪れてはいたものの、いつも避暑を兼ねた夏休みの訪問ばかりで、往路は大阪から国鉄の特急「雷鳥」に乗って、敦賀で新日本海フェリーに乗り換えていた。
真冬の北海道に行ってみたかったことと、ブルートレインに乗ってみたかったことから、2月の半ばに寝台特急「日本海」の函館行き(安いB寝台の上段)に乗った。が、先頭の機関車が客車を引っ張る方式で、なおかつ連結器に遊びもあることから、後ろの客車になるほど発着時に大きな衝撃音と激しい揺れが生じて、乗り心地は決して良くはなかった(結局、ブルトレに乗ったのはこれが最初で最後になった)。
函館で塩ラーメンを食ったりロープウェイで函館山に登ったりしてから、札幌の叔父の家で1泊させてもらうため、鈍行列車を乗り継いで函館本線を北上したものの、接続待ちで時間を食うことが多く、札幌に着いたのは0時過ぎになってしまった。
朝になって札幌から鈍行に乗って旭川に着き、母方の実家で数日過ごし、再び札幌までは鈍行に乗ったものの、札幌から函館までは時間を短縮するべく特急「スーパー北斗」に乗り、青函トンネルは快速「海峡」で通り抜けた。青森に着くと既に夜遅く、東北本線の終電は八戸止まりだった。とりあえず行ける所まで行こうと八戸に着いてみると、駅周辺に終夜営業の店が全く見当たらず、しんしんと雪が降る駅前の軒先でガチガチ震えながらスクワットで始発を待つ羽目になった。
八戸から東北本線を居眠りしながら鈍行乗り継ぎで南下すると、東京に着いたのは日没後だった。せっかく東京駅に着いたのだからと赤レンガの駅舎を見ようとしたものの、間違って八重洲口に出てしまった。マックワールド・エキスポは翌日開催、ということで、前日の内になるべく幕張メッセの近くまで行こうとしたが、最寄り駅を勘違いして総武本線に乗って幕張駅で降りてしまった(本当の最寄り駅は京葉線の海浜幕張駅)。
マックワールド・エキスポではソフマップが初日に外付けハードディスクを特価販売すると予告していて、丁度家で使っていたMacの内蔵ハードディスクの空きが少なくなっていたから、徹夜でフラフラになりながら行列に並んで開場を待った。そうして手に入れたハードディスクは、翌年破産することになるアイシーエム製だった。
2夜連続で寝床に就いていなかったので、それなりの宿で眠りたいと思い、手持ちの「携帯全国時刻表」に載っている広告を見てみると、上野の「ラドン&サウナ東泉」が23区内の駅チカで最も安い宿泊料金だった。日没後、上野駅の不忍口を出て、聚楽台の前でたむろする変造テレカ売りのイラン人たちの間をすり抜け、上野公園の南端部を大回りすると東泉の看板が見えた。大浴場は不忍池に面していたが、眼鏡なしで夜間だと特に何も見えなかった。
東京からは再び鈍行乗り継ぎで東海道本線を西に進み、途中、名古屋で当時プログラマーとして働きながら同人誌「ゲームジャーナル」を編集していた中村徹也の家で1泊したりしながら家路に就いた。
2回生になってからは、大型連休や大学の長期休暇などの際に鈍行乗り継ぎや夜行バスで度々東京へ行くようになった。マックワールド・エキスポやワールドPCエキスポといったIT関連の大型イベントを回ったり、MOSA(前身団体は1993年に設立)が当時初台のオペラシティにあったアップルジャパンで開催していた学生向けの開発セミナー「直伝塾」を受講したり、普段行くでんでんタウンでは手に入らないアップル純正ソフトやロゴグッズを秋葉原のT-ZONEミナミやザコンのMac館で買ったりしていた。
秋葉原ではMac以外にも、ぷらっとホームで展示品のBeBoxを触ったり、まだ秋葉原にしか店舗がなかったものの新刊だけでなく古書も扱っていたとらのあなでバックナンバーを漁ったりしていた。T-ZONEミナミの1階の書籍売り場で「ユーズド・ゲームズ」の創刊号が大々的に平積みになっていたので立ち読みしたこともあった。
加えて、現在のウィキの方のコンテンツ「呉智英MANIAXXX」の前身となる「All about 呉智英」の資料収集用に、永田町の国立国会図書館や早稲田鶴巻町の現代マンガ図書館や世田谷の大宅壮一文庫にも入り浸っていた。高田馬場で開催されていた論語の私塾「以費塾」に飛び入りで参加することもあった。
国立国会図書館はIT化の真っ只中で、館内には蔵書検索用のパソコンと共に旧来のカード形式の図書目録も残っていた。カウンターで資料請求すると手元に届くまで30分くらいかかっていたので、待ち時間の暇潰しにカードをめくって中小規模の出版社が新刊をちゃんと納本しているのかを調べたりしていた。
例えば「町野変丸」で調べてみて、あー、一水社は全然納本してねーなー、と思ったりしていたが、双葉社がアクションコミックスを(あの「坊っちゃん」の時代ですら)全然納本していないと知った時には流石に驚いた(ついでに、「明治蹇蹇匪躬録」を実在する書籍と思って検索したりしていた)。
国立国会図書館では他にも「タクテクス」や「シミュレイター」のバックナンバーも読んでいたし、贔屓のエロマンガ家の初出を調べるために掲載誌のバックナンバーをまとめて請求するようなこともしていた。そんな風に読んだり調べたりしていて腹が減ると、本館6階の売店でロッテのモナ王を買って階段を降りながらムシャムシャ食うという品の無いことをしていた。
食事は、天下一品の高田馬場店や歌舞伎町店に入ることもあったものの、なるべく当時の関西にはあまり無いものを食うようにしていた。その筆頭は、油そばだった。吉祥寺の「ぶぶか」の支店が高田馬場の(芳林堂書店が入っている)Fiビルの地下にあって、それが初めて食った油そばだった。現代マンガ図書館での調べ物の際には隣の東京麺珍亭本舗にも入ったし、武蔵境の珍々亭にも一度だけ足を伸ばした。
秋葉原では駅前が再開発の真っ最中で、一帯が高いフェンスで囲まれていた。その一角であるワシントンホテルの向かいのフェンス前の車道にドネルケバブのウォークスルーバン屋台が頻繁に停まっていたので、目にする度に買っていた。その近くにあった味の六花選(山手線と京浜東北線の高架下で営業していた飲食店6軒の集まり)の「竜世」で格安ランチメニューのカルビ丼を食うことも多かった。
まだ関東ローカルな存在だった松屋に入ることも多かったし、(一度日本から撤退する前の)バーガーキングが高田馬場のビッグボックスや池袋のサンシャイン通りにあったのでワッパーにかぶりつくこともあった。大宅壮一文庫での調べ物を終えて京王で都心部に戻る途中、代田橋で途中下車して夜の環七沿いをとぼとぼと歩き、なんでんかんでんで博多ラーメンを食うこともあった。(家で度々作っている袋麺の「うまかっちゃん」と比べて)スープの透明度が高く、本場の博多ラーメンって豚骨でもスープが白濁してないんだ、と思った。ただ単に客が増えすぎてスープを薄めていただけだったと知ったのは、ずっと後のことだった。
夜は東泉に泊まることもあったが、宿代をケチって徹夜することも少なくなかった。丁度、四ツ目通りが営団地下鉄半蔵門線の延伸工事で夜中でも賑やかだったので、沿道のコンビニをハシゴして雑誌を立ち読みしたり、錦糸町駅前や猿江恩賜公園のベンチで寝っ転がったりしてJRの始発を待った。そして、JRが動き始めると山手線の車内で10時くらいまで仮眠を取っていた(大崎止まりでない限り、1周約1時間でグルグル回り続けるから都合が良かった)。
そうした仮眠で使うこともあって、都内の移動は基本的にJRの都区内フリーきっぷしか買わなかった(地下鉄サリン事件の記憶もまだ新しかったので、地下鉄に乗るのは気が引けた)。だから、国立国会図書館へは四ツ谷駅から、現代マンガ図書館へは高田馬場駅から、それぞれ30分ほど歩いていた。大宅壮一文庫だけはJR線から遠く離れている(というより、世田谷は23区内で唯一JR線も地下鉄線も無い)ので、仕方無く新宿から八幡山まで京王に乗っていた。だから、東京で馴染みのある私鉄は京王だけだった。
高田馬場や新宿でまんがの森をひやかしたり、渋谷でポストホビーやアルバンをひやかしたり、赤羽のフロンティア91で迷彩2型パターンの小物を買うこともあった。東京駅から西国分寺駅まで武蔵野線で大回りすることもあった。その一方、JR線から離れた浅草や築地には全く行かなかった。神保町も水道橋や神田からはやや遠く、あまり行かなかった。
そんな風に、毎年数回、主に23区内のJR沿線を逍遥していたけれど、住みたいとは思っていなかった。生まれも育ちも摂津国で20年以上過ごしていたから、東京はたまに行くのにはいいけれど、住むことは考えられなかった。
まず、京阪神はもっぱら経済と文化ばっかりなのに対し、東京は政治の中心地でもあることによる差異が大きいように思えた。大阪だと梅田のアメリカ総領事館の前にポツンと1台だけ停まっているような機動隊のバスが永田町では至る所で目に入ったし、JRの高架下の柱には愛国党のポスターがベタベタと貼られていた。そうした、関西では滅多に見ない剝き身のポリティクスを目の当たりにする度に、あぁ、「首都」に来たなぁ、と思った。
加えて、大阪に比べて東京は「五割増しの街」に思えた。大阪の人口が約800万人なのに対して東京の人口は約1200万人、大阪環状線が1周約40分なのに対して山手線は1周約60分で、街の規模もビルの高さも大通りの道幅も、全てが大阪の五割増しのように思えた。関西の都市のスケールに慣れてしまった身にとって、東京は日々過ごす街としては大きすぎて手に余るように思えた。
だから、大学在学中は、将来的に京都で一人暮らしをしたいとは思っていたけれど、東京に住みたいとは全く思っていなかった。けれども、もしも、万が一、東京に住むようなことになるとすれば、世田谷の京王沿線に住みたいと思っていた。最初は仕方無く乗っていた京王だったけれど、大雪でJRのダイヤが大幅に乱れていても問題無く運行していたり、運賃を値下げしたりしていて、個人的な好感度がどんどん高くなっていた。とらのあなの池袋店が開店した直後に立ち読みした「流星課長」(舞台が京王線)も少なからず影響していた。
まさか大学を卒業して10年後、本当に世田谷の京王沿線に住むことになるとは、当時は想像すらしていなかった。