日本では12世紀末から19世紀半ば過ぎまで、武士が軍事のみならず文治も司る武家政権が続き、「文武両道」という言葉も現在に至るまで人口に膾炙している。が、これは東アジアでは特異な部類に属する。
東アジアでは伝統的に、文と武は対立する概念として扱われてきた。まず、支那では隋朝から清朝まで、官吏は文官と武官に二分され、登用試験である科挙も、文官用の「文科挙」と武官用の「武科挙」が別々に設けられていた(高麗や李氏朝鮮では文官を「文班」、武官を「武班」と言い、両者を総称したのが「両班」)。勿論、兼任はしない。
支那の主要な都市や世界の中華街には孔子を祀った孔子廟や関羽を祀った関帝廟が存在するが、孔子廟は「文廟」とも言い、関帝廟は「武廟」とも言う。孔子廟や関帝廟に比べると日本での知名度は低いが、台北の国民革命忠烈祠では、中華民国の烈士が「文烈士」と「武烈士」に二分され、それぞれ文烈士祠と武烈士祠に分けて祀られている(以前に外観を撮っている)。
日本では明治に入ってから武家政権を廃止して、支那に倣って官吏を文官と武官に分け、高等文官試験によって文官を、陸軍士官学校と海軍兵学校によって武官を登用するようになったが、それからまだ、150年くらいしか経っていない。昭和戦前期、政友会と民政党の二大政党制がグダグダになってゆくのと並行して軍部による政治的介入が増していったが、それは與那覇潤言う所の「再江戸時代化」のひとつだったと言えるだろう。当時はまだ、文武両道の武家政権の記憶が人々の間に僅かながら残っていたのだから。