ライトノベル、という言葉が人口に膾炙して久しい。元々は1990年代初頭のインターネット普及直前にパソコン通信サービス大手だったニフティサーブで、会議室の名称として誕生した言葉なので、使われ始めてから既に約30年が経っている。支那語でも「軽小説」という直訳で呼ばれている。
しかし、それではライトノベルなるものは一体何がどう軽いのか?と問われて、即答できる人はどれだけいるだろうか。
歴史を紐解けば、そもそも「小説」そのものが、軽い読み物だった。「小説」という名称自体、天下国家を大所高所から論じる「大説」に対して、卑近で卑俗な物事を扱ったチマチマしたシロモノ、という侮蔑的なニュアンスを含んだ呼び名だった。しかし、東アジアでは早くから紙が安く量産されるようになったため、卑近で卑俗な物事も書籍化されて広く流通し、人気を博するようになった。
近代に入って新聞・雑誌といった、紙を使った出版マスメディアが誕生すると、小説はそうした出版マスメディアの目玉コンテンツになった。夏目漱石の小説の多くは「朝日新聞」や雑誌「ホトトギス」で連載されたもので、アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズも、大部分は雑誌「ストランド・マガジン」に掲載されていた。
しかし、そのような「軽い読み物」として読まれてきた小説は、どんな作品であっても、世に出てから時間が経つにつれ、重くなってゆく。というより、小説に限らず、あらゆるエンターテインメントは、経年劣化ならぬ経年重量化の宿命からは逃れられない。
時間が経つにつれ、作中で用いられた語彙や描写は古臭くなる。発表当初は斬新だったものであれば、尚更古臭くなりやすい。加えて、同時代を描いた作品も古臭くなりやすい。元々は現代劇であった「サザエさん」は、今や時代劇と化している。もっと遡れば、歌舞伎は元々、同時代の出来事を扱っていた。
そして何より、世に出てから長い年月が経ち、既に多くの人に享受され、場合によっては研究対象になったり古典として扱われたりしている、という事実そのものが、作品を重くさせてしまう。
つまり、ライトノベルは何がどう軽いのかというと、教科書に載ってたり文学史の年表で列挙されているような「昔の小説」に比べて、読者が軽い気持ちで手に取りやすい。これこそが、ライトノベルの軽さの正体だ。
しかし、繰り返しになるが、そもそも小説そのものが軽い読み物だったのだから、いつだって、古い小説よりも新しい小説の方が軽い気持ちで手に取りやすい。そして、ライトノベルとて、経年重量化の宿命からは逃れられない。今現在、ライトノベルとカテゴライズされて人気を博している作品も、10年経ち、20年経てば、やはり重くなってしまうのだ。