前回までは「支那は、国ではなく、それ自体がひとつの世界である」という本稿のメインテーマの説明に充てていたが、今回からは、そのメインテーマからどんどん話を発展させる。
20世紀に入るまで、支那人の大部分にとっては、支那が「天下」(=世界の全て)であり、「我々は全ての国々がひとつに統合された「天下」に生きている」という自意識(あるいは建前)を持っていた。こうした支那人にとっての「天下」を外部からおびやかす存在といえば、万里の長城の北側からしばしば襲来する、非定住の遊牧騎馬民族が大半であり、こうした遊牧騎馬民族は非定住であるがゆえに、支那人にとっては固有の国土を持たない漂泊者の群れという扱いだった。が、清朝末期から、そうした自意識(あるいは建前)は、阿片戦争やアロー戦争、ロシアへの外満州と外西北の割譲、そして日清戦争によって、徐々に崩れていった。
「天下」の向こう側、唯一にして正統なる統治者である筈の皇帝の統治が及ばない所にも「世界」は広がっていて、そこには様々な国が存在していて、そうした国々にとっては「天下」もまた「世界の中の一国」という扱いであって、「秦」に由来する名前で呼ばれている……というのは、当時の支那人にとって、まさしくコペルニクス的転回だった。
しかし、20世紀に入った時点で、支那の人口は既に4億人を超えていた。4億人の意識を転換させるなんて、一朝一夕でできることではない。辛亥革命が起きて中華民国が成立しても、軍閥による分裂や国共内戦が続き、1949年に支那共産党が支那本土をほぼ制圧したことで、ようやく支那人全ての意識を転換させる下地が整った。支那共産党は1949年10月1日の中華人民共和国開国大典を「新中国成立」と呼んでいるが、それは単に新しい国家の成立というのではなく、「天下」から「世界の中の一国」へと、支那の自画像が本格的に転換し始めた瞬間だったのだ。
そして、その瞬間からまだ、70年くらいしか経っていない。依然として、支那の自画像、つまり支那人にとっての支那のイメージは、「全ての国々がひとつに統合された「天下」」というイメージがベースになっているのだ。