支那の広大な土地と膨大な人口の産物として、前々回は上からの管理術である中央集権体制を、前回は下からのサバイバル術である宗族エゴイズムを挙げたが、今回の内容はその続き。
支那は、広大な土地の中で宗族エゴイズムに基づいて勝手気儘に動き回る膨大な数のバラバラな個人を中央集権体制で辛うじてひとつにまとめ上げる「砂袋社会」と形容できるが、そのような極めて流動性の高い社会である支那では、宗族以外の他人というものは、基本的に、信用ならないし、アテにならない。ゆえに、宗族以外の他人を信用できるか否か値踏みすることは、極めて重要になってくる。だから、支那人は「信用ならざる他者を値踏みするための可視化された指標」というものを、何千年も必要としていた。
そして、そのような「信用ならざる他者を値踏みするための可視化された指標」の代表格と言えるものが、カネだ。
支那人の新年の挨拶が「恭喜発財(金持ちになれますように)」だということや、支那人の葬儀では高額紙幣を模した冥銭が使われることは、日本でも若干知られていて、それゆえ、支那人を拝金主義的とみなす日本人は少なくない。が、それは極めて表層的な見方だ。
カネは、誰でも平等に稼げて、誰でも平等に使える。誰が稼いでも、誰が使っても、1万円は1万円だ。人一倍カネを稼げるということは、多くの人がカネを払ってでも欲しがるモノやサービスを提供する能力が人一倍高いということを意味する。加えて、カネで解決できる問題や回避できる不幸は山のようにある。人一倍カネを持っているということは、問題を解決したり不幸を回避する能力が人一倍高いということを意味する。「信用ならざる他者を値踏みするための可視化された指標」として、これほど有力なものは滅多に無い。
始皇帝が度量衡や書体と共に支那の貨幣を統一して以降、支那人は何千年にも渡って、この、誰でも平等に稼げて使えるカネでもって他人の信用度を推し量り、他人から信用を得るためにカネを稼いできた。ほんの150年前までコメを税として農民から徴収し、コメを給料として公務員に支給し、いまだにカネを穢れたものとみなす日本人とは貨幣経済の経験値が圧倒的に違う。
そして、このようなカネに加えて、主に宋朝から清朝にかけて、もうひとつの「信用ならざる他者を値踏みするための可視化された指標」として機能していたものが、科挙の成績だった。
日本人はカネと同様、ペーパーテストも穢れたものとみなすが、人一倍ペーパーテストの点数が高いということは、ペーパーテストの問題を解決する能力が人一倍高いということを意味する。しかも科挙の答案は自由記述式だったので単なる暗記力を問うものではなかった。ペーパーテストの問題を解決する能力が人一倍高ければ、現実の問題を解決する能力も人一倍高いことが期待できる。加えて、科挙の狭き門をくぐって役人の地位に就けば、政治的な権力を得られ、カネも集った。ゆえに、科挙の成績も「信用ならざる他者を値踏みするための可視化された指標」として有力だった。
清朝末期に科挙は優れた人材を登用する機能を果せていないとみなされ、廃止されたが、それは試験科目が人文科学に極端に偏っていたがゆえに、「天下」から「世界の中の一国」へ、という未曾有の大変化に対処しにくかったのであって、ペーパーテストそのものが人材登用の手段として無効ということにはならない。日本人の、カネやペーパーテストをさげすむ姿勢というのは、他者の値踏みを間違えると最悪、命取りになるというシビアさが欠落した、ぬるい環境でしか通用しない。