前回は、支那の広大な土地と膨大な人口の産物として中央集権体制を挙げたが、今回はその続きで、もうひとつの産物である宗族エゴイズムの話。
産業革命以前の、通信手段も移動手段も未発達だった時代の支那では、政府による広大な土地と膨大な人口の管理は平時においても極めて限定的なものにならざるを得ず、ましてや有事においてはほぼ無力だった。ゆえに、有事におけるセーフティーネットは宗族くらいしかなかった。地平線の彼方まで災厄が大地を覆い尽すような事態になれば、宗族だけを頼りに安全な場所を探し求めてひたすら逃げ続けるしかない。三十六計逃げるに如かず。
そして、そのような宗族エゴイズムで行動する支那人と政府の関係というものは、あるものに喩えることができる。それは、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」論だ。
生物とは、自らの複製を増やして存続させようとする利己的な遺伝子の生存機械(乗り物)に過ぎない……というのが利己的な遺伝子論の骨子だが、宗族エゴイズムで行動する支那人もまた、政府をはじめ、ありとあらゆる組織というものを、自分自身を含めた宗族を増やして存続させるための生存機械(乗り物)に過ぎないとみなす。そして、乗り物が乗り物として役に立たないとみなせば、いつでも、あっさり、別の乗り物へ乗り換える。
支那の広大な土地と膨大な人口は、一方で上からの管理術としての中央集権体制を生み出し、他方で下からのサバイバル術としての宗族エゴイズムを生み出した。そして、これら両者によって、支那は「砂袋社会」となった。
砂袋というものは、一見すると巨大なかたまりのように見えるが、袋の内側ではバラバラの砂粒が勝手気儘に動き回っている。支那もまた、中央集権体制ゆえに外側からだと巨大なかたまりのように見えるが、その内側ではバラバラの個人が勝手気儘に動き回っている。しかも、この砂袋は結構穴だらけで、あちこちで砂粒が出たり入ったりしている。