さて、先日予告した通り、年明けからちょっと長めの話を、何回かに分けて連続して投稿する。テーマはズバリ、支那。
21世紀に入ってから、支那の擡頭が著しい。ゆえに、支那とは地理的に近い日本で生れ育ってきた日本人は、好むと好まざるを問わず、擡頭する支那と対峙せざるを得ない。が、依然として日本人の大多数は支那と対峙する態勢が整っていない。そもそも、支那の見方が全くなっていない。というわけで、最初の海外旅行先が支那で、その後も何度も支那を訪れ、繁体字でも簡体字でも支那語が一応読み書きできて、実際にネット上で日常的に支那語を読み書きしている立場から、凡百の支那論とは決定的に異なる支那の見方を提示しようと思う。
で、本稿が凡百の支那論とは決定的に異なるということを示すためにも、まず最初に、冒頭から何度も何度も繰り返し使ってきた「支那」について、一発ぶちかます。日本人の大半は「支那」を蔑称だと思っていて、蔑称だと思うから使うのを避けたり、蔑称だと思うからわざと侮蔑するつもりで使ったりしているのだが、どちらも均しくバカ丸出しだと断言しておく。こういうバカ共はそもそも、基本的な支那語の知識すら無い。なぜならば、インドシナ(英語だと「Indochina」もしくは「Indo-China」)は支那語でも「印度支那」だから。
具体的に、幾つか例を挙げる。インドシナ戦争(英語だと「Indochina Wars」)は「印度支那戦争」だし、フランス領インドシナ(英語だと「French Indochina」)は「法属印度支那」(フランスは支那語で「法蘭西(ファーランシー)」略して「法国(ファーグォ)」)だし、フランス映画の「インドシナ」(原題は「Indochine」)も「印度支那」だ。
インドシナ以外にも例を挙げる。コーチシナ(英語だと「Cochinchina」)は「交趾支那」だし、ビルマのミッチーナー(かつて日本では「ミイトキーナ」と呼ばれていて、英語だと「Myitkyina」)は「密支那」だ。支那事変をテーマとして香港人がデザインして台湾で出版されたボードウォーゲーム「英烈千秋」のマップでも左下に「密支那」が描かれている。日本でも輸入販売されていたので、持っていればマップを広げて確認できる。
孫文最大のライバル、宋教仁が日本亡命中の1905年に東京で発行した雑誌は「弐拾世紀之支那」だったし、1911年に辛亥革命が成立した後の国号案には「中華民国」の他にも「大夏」や「支那」があった。一気に時代を遡ると、そもそも支那の語源は、始皇帝の「秦」がインドで転訛して「チーナ(China)」になり、そのインドで誕生した仏教の経典を支那で翻訳する際に文中の「チーナ」を「支那」に音写した……というのが有力な説とされている。つまり、当の支那人自身が「支那」を使いまくっていた。
更に言えば、支那人が支那を「中国」と呼ぶようになったのは、20世紀に入ってから梁啓超が著作で使うようになってから一般化したのであって、意外と歴史は浅く、日本人が岡山や広島や山口や鳥取や島根を「中国(地方)」と呼んできた期間の方が遥かに長い。
支那人が支那を「中国」と呼ぶようになったのは、意外と歴史が浅い……ということは、実は、ある重要な事実を反映している。その重要な事実とは……「支那は、国ではない」。