東日本大震災から、丸十年経った。とはいえ、関西の実家暮しだった大学生の時に阪神大震災を経験したのに対し、東日本大震災では、そもそも震災当日は日本にいなかった。
阪神大震災では、部屋の本棚が全部倒れて下敷きになりかけた。就寝前にロックをかけ忘れていた窓が横揺れで半分ほど開き、揺れが収ってから夜明け前の冷気が外からゆっくり入ってきた。
大学が冬休みに入ってから、近所の物流倉庫で通販カタログを宛名入り封筒へ封入するアルバイトに就いていたので、その日も出勤した。一部で荷崩れが発生していたものの、既に社員が片付けていたので、いつもと同じように、パートのおばちゃんたちと共に夕方までカタログを封筒に入れ続けた。
仕事場にテレビやラジオは無く、仕事中にニュースは全く伝わってこなかった。退勤後、国道171号線を東へ歩いて帰宅する途中、神戸方面へ走ってゆく消防車とすれ違った。その車体に「名古屋市消防局」と書かれているのに気付いた時、ようやく災害の規模の大きさを実感した。
その後、かなり長い間、早朝に突然目が覚めて、時計を見てみると午前5時46分だったことが何度もあった。震災前は神戸に行くことは結構あったが、震災後、再び神戸を訪れたのは、10年ほど経ってからだった。そして、親元を離れて独り暮らしを始めてから現在に至るまで、部屋に棚は一切置いていない。
一方、東日本大震災では、4年前から東京に住んでいたものの、韓国内に点在する朝鮮戦争の記念館・記念碑巡りで3日前から全羅道の田舎を一人でほっつき歩いていたので、夕方になって光州の宿に戻るため、バスを待っている間に何気なくiPhoneでニュースサイトを見てようやく気が付いた、という、何とも間の抜けた次第だった。
その後、宿にいる間はテレビではYTNをつけっぱなしにして、MacBookではNHKが特別にネット配信していたニュースを流しっぱなしにしていたが、帰国したのは1ヶ月以上後の4月25日だった。
だから、震災直後の東京の雰囲気や空気感といったものを、全く肌感覚では経験していない。その一方、2012年から様々な仕事を転々としてきたが、実は、東京電力に対する個人賠償の請求書がらみの仕事に就いていたこともある。
去年、常磐線が全面再開した直後は、東京から仙台まで鈍行を乗り継いで1泊2日で往復した。7月の4連休には会津に行きたかった(東武鉄道が発行している会津方面のフリーパスが丁度4日間有効なので)のだが、緊急事態宣言以降、遠出が憚られたので諦めた。
阪神大震災が肌感覚の経験だったのに比べて、東日本大震災に対しては、今でもちょっとした距離感を覚えている。