「All about 呉智英」から「呉智英MANIAXXX」へ

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ウィキに「呉智英MANIAXXX」を追加した。

20年前に初めて個人サイトを開設した時、個人的に目玉と自負していたコンテンツが二つあった。一つは「ハイパーテキスト論語」で、もう一つが「All about 呉智英」だった。どちらもサーバーを転々とした後、最終的に.Macのサービス終了によって一度は自然消滅させてしまったが、最初の開設から20年目の今年、「ハイパーテキスト論語」を「ハイパーテキスト論語リターンズ」としてPHPラボで復活させ、その直後から、もう一つの目玉(だった)コンテンツの復活を考えるようになり、ようやく年末ギリギリになって公開するに至った。

呉智英夫子には、10代後半から20代前半にかけて、最も強烈な思想的影響を受けた。最初の接触は1987年の4月、学研の雑誌「UTAN」だった。小学生の時に「科学」と「学習」を定期購読していたのだが、中学校への進学によって改めて購読誌を選び直すことになり、学年誌の「中学コース」よりも科学寄りっぽかった「UTAN」を選んだ。が、この「UTAN」という雑誌、科学雑誌っぽい見た目とは裏腹に、清田益章だの麻原彰晃だのを取り上げていて、同じ学研のオカルト誌「ムー」の別働隊っぽかった。その上、途中から環境問題へと大きくフォーカスを切り替えたので、その無節操ぶりにあきれ果て、中学卒業と同時に購読を打ち切った。

閑話休題。その「UTAN」の購読を始めた時点で「南伸坊のおじさんたちの非科学座談会」という連載があり、そこで初めて夫子を知った。が、その時点では、単なる物知りのおじさん、という印象しか持たなかった。

次の接触はマンガ情報誌「コミックボックス」だった。中学校の卒業間際、「機動警察パトレイバー」を特集した1990年の2月・3月合併号から読むようになり、高校に進学してからも最新号やバックナンバーを度々買っていたのだが、同年7月号から「知的マンガ人のための教養読書講座」という連載が始った。あ、あの物知りのおじさんだ、と思った。

高校生活は、半年も経つと鬱々としたものになっていた。元々、早熟でませていたが故に、小学校や中学校でも周囲の同級生とウマが合わず、毎学年、半年も経つと孤立感を覚えていたのだが、高校では最初の半年で孤立感を覚えてからずっと、進級しても鬱々とした気分が続いていた。高校二年の二学期だった1991年秋のある日、自転車で下校する途中に寄った書店で、偶然、「インテリ大戦争」を見つけた。何気無く手に取り、表紙をめくると、そこにはこう書かれていた。

不確実性の時代は、学問で乗り切るしかない!ということにみんな気づき始めている。つかみどころのない時代だからこそ、学問をして自分の物の見方を培わなければならない、とみんな感じているのである。それなのに我等凡人は、忙しい、疲れてる、とか言って、分かっちゃいるけど全然学問しないのである。一体、人生がどうしてそんなに忙しくて疲れるのかよく分からないけど、とにかくしない。そして学問は一部のインテリの方々にお任せして、自分はそのおこぼれにあずかりたい、甘い汁だけ吸いたい、と都合のいいことを考えるのである。そして幸運にもあなたが今手にとっている本書こそ、その甘い汁なのだ。本書を手にとって吟味した後に買わない人がもしいたら、その人はきっと一生、甘い汁にもうまい話にも、無縁で過ごすに違いないのである。

甘い汁やうまい話にはあまり興味が無かったけれど、でも、この本を買って読まなければ、一生、ダメな人生を送ることになってしまうような気がして、レジへと向った。

帰宅して、西日が差す自室で床に寝っ転がり、頭だけを壁にもたれかけて、「インテリ大戦争」を読み始めた。

圧倒された。子路が孔子に圧倒されたように、圧倒された。該博な知識に舌を巻き、絶妙なユーモアに笑い転げながら、この人のようになりたい、少しでも近付きたい、と思うようになった。

その直後から、主に旭屋書店の梅田本店で著書を買い漁り、新刊書店で買えない古い著書は北大阪の古書店を回って買い漁った。仲間と呼べるような同級生も、恩師と呼べるような教師もいない、暗い高校生活の中で、夫子が唯一の心の拠り所となった。高校を卒業して一浪中の1993年夏、雑誌「VIEWS」で翌年の東京都知事選への立候補宣言を読んだ時には、何とかして住民票を東京へ移せないかと、本気で考えた。

一浪の末、立命館大学に入学した1994年の秋、大阪大学の学園祭で開催された夫子とひさうちみちお先生の講演会を見に行った。初めて直接、夫子の姿を目に焼き付け、語りに耳を傾け、持参した色紙にサインを貰い、主催者によるアンケート用紙にやたらめったら熱過ぎる感想を書き連ねた。すると、それがきっかけでその後も主催者と会うようになり、翌年、立命館大学で夫子を招いたイベントを主催することになった。が、イベント開催の経験どころか人望も人脈も全く無いので、このイベントそのものは成功したとは言い難かった。

ただし、このイベントの後、夫子の情報を発信する公認サイト開設の許可を貰った。そして1996年の個人サイト開設時、「All about 呉智英」を目玉コンテンツの一つに据えた。著書の一覧が主要なコンテンツだったが、雑誌掲載のみで単行本に未収録の原稿の一覧や対談記事の一覧も将来的に追加するべく、大学が長期休暇に入る度に学割切符で東海道本線の鈍行列車を乗り継いで東京まで行き、永田町の国立国会図書館や早稲田鶴巻町の現代マンガ図書館、世田谷区八幡山の大宅壮一文庫に1週間ほど入り浸るということを繰り返した。東京への滞在中、夫子が高田馬場で開催していた論語の私塾「以費塾」に飛び入りで参加することもあった。

大学卒業後も、京都精華大学で夫子が座長を務める連続講座「マンガと教育を巡る諸問題」や、なごや博学本舗が大須演芸場で夫子を講師として開催するイベントに何度も参加した。ただし、大学生の時からアカデミズムにはどうも馴染めないような自覚があったので、日本マンガ学会には参加しなかった。そして、2006年にYahoo!ジオシティーズで新たに個人サイトを作った時に、旧サイトから「All about 呉智英」は移行させなかった。理由はズバリ、ウィキペディアの擡頭だった。

大学生だった時から、実際に使いはしなかったものの、Linuxなどのオープンソースの潮流を面白いものと思っていた。ただし、人付き合いが悪いので、「伽藍とバザール」の喩えで言えば、自分はバザールの賑わいを横目で見ながら伽藍を黙々と作り上げる側だと認識していた。

みんなで作った方がいいようなものは、みんなで作ればいい。そして、夫子に関する情報のようなものは、ウィキペディアで不特定多数が持ち寄って作り上げれば十分なように思えた。そんなわけで、「All about 呉智英」は.Macのサービス終了と共に自然消滅した。

そして、10年の歳月が流れた。

前半の5年間で、郷里へ戻った夫子と入れ違うように仕事の都合で東京へ異動となり、管理職になったものの進捗管理が全く出来なくて職場に居づらくなり、退職して海外を一人であちこち旅して回ることで1000万あった貯金を2年半で使い果し、挙句、病院で発達障害の診断が下った。

何のことはない、人並み以上に優れた頭を持っていたつもりだったけれど、ただ単に頭の機能が偏った片端でしかなかった。

後半の5年間は、低賃金の非正規労働を転々としながら、40代を迎えた。20代30代を振り返ってみれば、普通の定型発達者のような生活上のスキルだとか世間知のようなものはロクに身に付けず、なおかつ機能が偏った頭なりに何か突出した知識を積み上げることもなく、平凡にも非凡にもなれずに人生の折り返し点を過ぎてしまった。

40年も生きていながら、結局、中途半端に賢しらなだけの、知識人のなりそこないにしかなれなかった。そもそも、自閉スペクトラム症は幾ら知識を蓄積しても「心の理論」を欠く。ゆえに、孔門の十哲で言えば、言語「だけ」の宰我にしかなり得ない。

今回の「呉智英MANIAXXX」では、ウィキペディアには載らないような、細かすぎ・些末すぎ・重箱の隅つつきすぎな情報しか集めていない。所詮、機能が偏った頭では、そんなことしか出来ない。

自閉スペクトラム症は、限定された興味への強いこだわりを持ち続ける。20年経っても個人サイトで扱うコンテンツが大差無いなんて、つくづく進化というものが無い。

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