年明けから足掛け3ヶ月に渡って、日本とは大きく異なる支那の風土・社会・人間について勝手気儘に綴ってきたが、その延長で、漢字の字義という観点から日本と支那の差異についても、しばらく勝手気儘に綴ってみる。
日本と支那について、かつて「同文同種」という言葉がしばしば使われていた。が、今ではこの言葉、あまり目にしない。そもそも同文同種だと思っている人も減っているだろう。「手紙」が支那語ではトイレットペーパーを意味するということも人口に膾炙して久しい。
しかし、具体的に個々の漢字の意味が日本と支那でどう異なっているのかについては、いまだにあまり知られていない。というわけで、具体的な例をあれこれと挙げてみることにする。まず一発目は、最も卑近で卑俗な、食い物に関する文字から。
「餅」という字は、日本語の訓読みでは「もち」と読まれ、もっぱら、粘り気の強い品種の米を蒸して搗いた食品を指す。が、支那語の「餅」は、それとは全く異なる。そもそも米ではなく小麦を使う。
支那の民族構成で圧倒的多数派に属する漢民族は、元々、黄河の流域に居住していた。そして、黄河の流域では米ではなく小麦が獲れた。ゆえに、漢民族の主食は元々、小麦だった。餃子の皮やラーメンの麺や油条が小麦で作られることからも明らかだろう。「餅」も、小麦粉を原料とするいわゆる「粉もの」全般を指し、支那語で「餅店」はパン屋を意味する。月餅も餡餅も春餅も葱油餅も胡椒餅も小麦粉で作るし、煎餅も支那では小麦粉で作る。ピザは「比薩餅」だ。
支那で米が獲れる所は長江の流域であり、漢民族は南方へ勢力を拡大してからようやく米も食うようになった。ちなみに、漢民族の南方への勢力拡大に伴って、長江の流域で米(長粒種ではなく短粒種)を主食としていた先住民の中で、漢民族から逃れて米が獲れる新天地を求めた者達が、船に乗って長江を下り、海を渡って日本に辿り着くことによって稲作が日本に伝播した。現在、短粒種の米はジャポニカ米と呼ばれているが、実は長江の流域で最初に栽培化されたことが判明しているので、本来ならシニカ米と呼ばれるべきだろう。
米は小麦よりも栄養価が高く収穫量も多い。加えて黄河よりも長江の方が水量が多い。ゆえに、漢民族が長江の流域へも勢力を拡大して以降、長江流域圏の経済は徐々に黄河流域圏の経済を上回るようになってゆき、南宋に至って「江浙(≒江蘇省と浙江省)熟すれば天下足る」とも呼ばれるようになった。しかし、それでも漢民族は小麦食指向だった。そこが米食指向の日本人と決定的に異なる。そうした違いが如実に現れているのが、餃子の扱いだろう。
小麦食指向の漢民族にとって、餃子とは小麦粉で作られた皮がメインであって、ゆえに皮は分厚く、茹でて作られ、あっさりとしている。中に入れる具も豚肉や白菜やエビに限らず、牛肉や鶏肉や羊肉、セロリや筍やトウモロコシ、蟹や魚肉や貝柱も使う。トマトと玉子、大根とキクラゲ、香菜(コリアンダー)、サボテン、スイカの皮を具にすることもある。ちなみにニンニクは基本的に入れない。
一方、米食指向の日本人にとって、餃子とは皮付きの肉団子という扱いであり、ゆえに皮は薄く、焼いて作られ、こってりとしている。そもそも小麦粉で作った皮で具を包んで焼いたものを支那語では「餃子」とは呼ばず「鍋貼(グオティエ)」と呼ぶ。餃子の王将で店員同士のコールで餃子を指す「コーテル」の語源でもある。
「麺」も部首に「麦」を含むことからわかるように、支那語では小麦粉そのものや小麦粉の生地で作った細長い食品を麺と呼び、ベトナムのフォーは「越南粉」と呼ぶ。ビーフンも「米粉」で、つまり、米で作った細長い食品を支那語では「粉」と呼ぶ(ビーフンというのは「米粉」の閩南語読み)。
ちなみに、日本の(米を使った)「もち」は、支那語では「麻糬」と音訳されている(台湾語読みで「モワチー」、普通話だと「マーシュー」)。
このように、最も卑近で卑俗な食い物に関する漢字ひとつとっても、日本語と支那語では意味するものが大きく異なっている。そして、日本人は支那の食文化を、ほんのひとかけらしか知らないし、米食指向と小麦食指向の差異にも気付いていない。それでは、小麦食指向の漢民族にとって、米とは一体何なのか?
これについては、小池倫太郎氏がかつて北京出身の武術家との会食時、麺類を食っていたら言われたという言葉を引用することで、とりあえずの回答としたい。
アナタ麺食べてる、イイネ!麺食べるヒト、王様。米食うヤツ、奴隷。
ひでえ。