就職氷河期組としては例外的に、大学卒業後、最初の10年間は正社員の職にありつけていた。しかし、職場環境は劣悪だった。むしろ、劣悪な職場環境なのにズルズルと10年間も身を置き続けてしまったのは、キャリア構築という点では大間違いな選択だった。
勤め先は、1998年に入社した時点では吹田の江坂に自社ビルを構えていて、主な取引先は大阪市内を中心とした府下の中小企業だったが、元々の創業の地は和歌山だったので、和歌山市周辺にも古くからの取引先があった。
プログラマーとして採用されたので、そうした中小企業が使う業務用のソフトウェアを開発することが、一応は主な仕事ということになっていた。ひとつだけ有名どころを挙げると、通天閣のお膝元にあるジャズレーベル(履物屋と兼業)がタワレコやHMVなどにCDやDVDを発送する時に使う、送り状発行システムを手掛けたことがあった。
とはいえ、実際にはソフト・ハードを問わない技術屋という扱いだった。取引先に納品するパソコンや周辺機器の事前セットアップは勿論のこと、まだまだブロードバンドの普及前だったので完成したソフトウェアをMOディスクやZIPディスクやCD-Rに入れて現地までインストールしに行くことも多かったし、ハードウェアの納品やネットワークの設定に行くことも少なくなかった。
そうした外出仕事は基本的に単独行だったので、船場の問屋街へ行く場合は仕事ついでに味べいのカツ丼や自由軒のカレーに舌鼓を打つこともあったし、和歌山へ行く時は直帰になることが多かったので、そうした場合は井出商店に寄っていた。
茨木市内の親元暮らしだった期間は、金曜日の仕事帰りに家とは反対方向の大阪市内へ度々繰り出していた。京都・東山三条のブリティッシュパブ、ピッグ&ホイッスルが梅田のお初天神に支店を出していたので、フィッシュ&チップスをつまみにギネスのパイントをちびちび一人飲みしていた。新宿東口のダブリナーズが宗右衛門町に支店を出していたこともあったので、そっちに行くこともあった。
2005年に京都の河原町で一人暮らしを始めると、金曜夜の一人飲みは寺町京極のアジアンキッチンという大和実業グループがチェーン展開していたエスニック居酒屋になった。四条通りのモスバーガーで2階の窓際席に陣取ってナン・タコスにかぶりつくこともあったし、木屋町でコロナの玉子サンドとカツレツサンドを堪能したり新福菜館のラーメンをすすることもあった。
初任給では初代のHHKBを買って、職場で使い倒していた。2003年にはHHKB Professionalに買い替えて、それは20年以上経った今でも家で愛用している。
なんだ、随分と良さそうな職場環境じゃないか、と、ここまで読んだら思うかもしれない。しかし、自社ビルを建てる前から勤務していた古参社員がことごとく、ろくでもない連中だった。
開発を手掛けた業務用ソフトは一度納品すればおしまい、というわけではなく、営業部長を筆頭とした営業担当が度々再訪しては追加の要望を聞いていた。そして、営業部長は追加の要望を聞いたその場で電話をかけて口頭で要望を伝えてくることが多かった。
「あの〜田村君、簡単な作業やねんけど……」(←毎回必ずこう切り出す)
確かに、大抵の作業は簡単なものだった(納品書の印刷フォームに会社のロゴ画像を貼り付けるとか)。しかし、その簡単な作業をするために、今現在取り組んでいる作業を一旦キリの良い所で中止して、念の為にバックアップを取り、改めて修正依頼を受けたソフトのソースコードをパソコンにコピーして開発環境で開き、修正を加えて動作テストで問題無ければコンパイルしてソースコードと共にバックアップを取ると、どんなに簡単な作業でも確実に15分はかかった。
そして、物事の優先順位を判断するのが苦手で過集中なASD(しかも依頼を断りにくい若手)が、そのような割り込み仕事を2件、3件と食らうと、本来取り組んでいる仕事は遅れに遅れてしまい、19時20時まで残業するのが当り前になってしまった。
そもそも、営業部長がそんなやり口だったこともあって、個々の営業担当が個々の開発担当に追加の要望を口頭で伝えるのが常態化していたから、社内全体でどれだけのタスクがあって、それぞれの進捗状況がどうなっているのか、タスクの全体像を誰も把握していなかった。
そうして開発担当全員がタスクのオーバーフロー状態になってからようやく、営業と開発の合同会議が開かれて、延々何時間もかけて未完了なタスクの洗い出しと割り振りのやり直しが行われたが、しばらく経つと元の木阿弥になってしまった。
要するに、マネジメント能力のある管理職が営業にも開発にも全くいなかった。グループウェアを導入したのも2000年代の半ばになってからで、導入してもタスク管理には使われていなかった。そんな体たらくだったから、有給休暇を取る社員もほとんどいなかった。
そんな風に、社内は度々大混乱に陥っていたが、それに対して営業部長の実兄でもあった社長は、よりによって「社内が混乱するのは良いこと」などとうそぶいていた。
どう見ても、社内で起きている混乱の多くは、事前に対策を立てておけば回避することが可能な問題に対して何の手も打たずに問題が表面化してから泥縄で解決しようとすることで起きていた。営業から開発へ個人レベルで依頼を口頭で伝えて社内全体で情報共有しない、というやり口を改めないから、いつまで経っても社内の混乱は繰り返されるし、それが結局は納品の遅れにも繋がった。
社長と営業幹部は口を開けば顧客第一主義などとほざいていたが、その顧客にとって迷惑な納期の遅れに繋がる社内の混乱は、営業側が属人化した割り込み仕事を乱発することで引き起こしていることが圧倒的に多かった。マッチポンプって言葉知らねえのか、と思った。
社長の言動には他にも軽蔑を催すものが多かった。2002年にソフト開発の下請けをインド人にさせる話が持ち上がり、下見として社長と二人で1週間、インドへ出張したことがあったのだが、インド側の担当者が運転する車でデリーからラージャスターン州のジャイプルへ移動する途中、信号待ちで停車していると物乞いが一人、車に近付いてきた。
インド側の担当者が何度も制止するのも聞かず、社長は窓を開けてルピー札を物乞いに渡そうとしたが、たちまちそれを見た他の物乞いたちも一斉に近付いてきて、ゾンビ映画の一場面みたいに車に群がってきた。
その後も、インド側の担当者との食事の席で、菜食主義だと食事が美味しくなくて栄養もつかないんじゃないの?などとデリカシーに欠ける質問を連発していた。
このバカ社長はその後も個人旅行で訪れたロシアで路上強盗に遭ったりしたのだが、大方日本の治安感覚のまんまで軽率な行動をしていたのだろう。所詮、根っこは田舎っぺだった。
その社長に次ぐ、社内での事実上ナンバー2の地位にあった古参営業の行かず後家は年がら年中更年期障害のようなヒステリー持ちで、朝礼で怒鳴り散らすことが多く、朝から最悪な気分になった。10年間勤めている間に営業・開発合わせて100人以上が新たに入社しては多くが1年以内に辞めていったが、こいつに叱責されたのが原因だったと思われる者は決して少なくなかった。
開発の古参社員も明らかに能力が低かった。中小企業向けの、一人で開発できてしまう比較的小規模なソフトばっかり手掛けていたから、複数人で同じソフトを手分けして開発する経験に乏しかった。安直なコピペの繰り返しで、メンテナンス性の低い無駄にクソ長いソースコードが多かった。コメントもほとんど付いていなかった。
そんな劣悪な職場環境では、先述した外出仕事が息抜きになっていたのだが、ブロードバンドの普及に伴って、次第にリモートデスクトップでのインストールが増えていった。加えて、ハードウェアの納品も営業が担当することが増えていった。
外出する機会が減ってゆく一方、仕事はどんどん増えてゆき、21時22時まで残業することも多くなっていった。気晴らしに自社ビルをちょっと出た所にあった自販機で缶入り飲料を四六時中ガブ飲みしていたら、ひどい虫歯になって銀歯を入れる羽目になった。
2007年に東京へ転勤になると、更に残業は増えて休日出勤もするようになった。30代で頭は白髪だらけになっていて、身も心もクタクタになり、銀行の通帳記入や定期券代の立て替え申請も億劫になってキャンセルするようになった。
2009年にソフト開発の下請けをベトナム人にさせることになり、10年勤めたんだから管理職も務まるでしょ、とばかりにホーチミン市に送り込まれて進捗管理を担当することになったが、元々がマネジメントを苦手とするASDな上にそもそも社内にマネジメント能力の高い管理職がいなかったのだから学ぶような機会も無く、当然、進捗管理に失敗してしまい、1ヶ月で日本に呼び戻されることになり、遂に限界が来て退職した。
もうアイテーと正社員はこりごり、と、完全に嫌気が差してしまい、以来、現在に至るまで非正規雇用の下っ端仕事を選び続けている。
就職氷河期組で、なおかつ発達障害者は、二重に見捨てられた。人のメンタルと職歴をボロボロにしておいて今ものうのうと生きている幹部連中は、退職して15年以上経った今でもガソリン片手にカチコミかけて自社ビル丸ごと焼き払ってやりたい。