年明け早々、3ヶ月もかけて「支那の見方」を長々と書いてみたのは、現在の支那について的外れな言説が横行していると思ったがゆえだったが、そもそも、現在の支那について的外れな言説が横行している原因としては、冷戦時代の政治経済観が大きく影響していると考えられる。
冷戦時代、世界は、政治的な自由度も経済的な自由度もどちらも高いアメリカ合衆国と、政治的な自由度も経済的な自由度もどちらも低いソビエト連邦の対立を背景に、その他の多くの国々もアメリカ側かソ連側、どちらかの陣営に属していた。そしてそれゆえ、「政治的な自由と経済的な自由は不可分」という政治経済観が、冷戦終結から約30年経った今もなお根強い。しかし、まさにそのような「政治的な自由と経済的な自由は不可分」という思考こそが、現在の支那を見誤らせる原因になっている。
支那では、宋朝初期から清朝末期までの約1000年間、科挙官僚と地主と文人の三者を兼ねた、ごくごく一握りの士大夫が政治に関与して、それ以外のその他大勢には参政権はほぼ無かった。その一方、商業は違法なものや政情不安をもたらすようなものでもない限り、大っぴらに認められていたが、商人には科挙の受験資格が無かった。つまり、政治的な自由と経済的な自由は不可分ではなく、政治的な自由は圧倒的少数にのみ与えられ、経済的な自由はその他の圧倒的多数に与えられていた。
1911年の辛亥革命以後も、中華民国では憲法がようやく1946年に制定され、翌1947年に施行された後、1948年に初めて選挙が実施されたが、翌1949年には国共内戦に敗れて台湾以外の支配権をほぼ失ってしまった。そして、国共内戦に勝って支那本土を制圧した中華人民共和国では1954年に憲法が制定されたが、現在に至るまで共産党による独裁が続いていて、選挙は実施されていない。
毛沢東時代の支那では、政治的な自由度も経済的な自由度もどちらも低かったので、支那はソ連側に属するとみなされていた。しかし、鄧小平による改革開放以降、政治的な自由度は低いまま、経済的な自由度だけが高くなっていった。
要するに、現在の支那は、宋朝初期から清朝末期までの「政治的な自由度が低くて経済的な自由度が高い」という、伝統的な支那に回帰したと言える。ところが、冷戦時代の「政治的な自由と経済的な自由は不可分」という思考に囚われていると、これがわからない。ゆえに、「経済的な自由を得た人民は政治的な自由も求める筈」などと思い込んだり、逆に「政治的には今なお共産党の独裁体制だから経済的にも今なお共産主義の筈」などと思い込んだりする。どちらも等しく間違っている。政治的な自由と経済的な自由は不可分ではないのだ。
支那の経済が今もなお共産主義、などという言説が論外なのは当然だが、経済的な自由を得た支那人が政治的な自由も求める、という言説も非常に疑わしい。支那で国民の大多数に幅広く参政権が与えられたことは、今まで一度も無い。加えて、21世紀に入ってから、政治的な自由度も経済的な自由度も高い国々では、ポピュリズムによる政治的混乱そしてグローバル企業による課税逃れが横行している。それでもなお、政治的な自由度も経済的な自由度も高い国の方が支那よりも優位に立てる、などと言い切れるだろうか。
支那人の大多数が、今まで一度も与えられたことの無い政治的な自由を求めるというのは、余りに楽観的に過ぎる。加えて、10億人がポピュリズムに走って政府のコントロールが利かなくなるのと、10億人を政府がガッチガチにコントロールするのと、どっちがマシだと言えるのだろうか。