毎年4月2日は世界自閉症啓発デー(World Autism Awareness Day)、ということで、世界各地のランドマーク(国内だと都庁とか東京タワーとか)が青くライトアップされている。
だが、ASDの当事者として言わせれば、こんなものは茶番でしかない。そもそも「autism」を「自閉症」などと誤訳している限り、こんな啓発運動なんか日本ではクソの役にも立たない。
誤訳?そう、「autism」を「自閉症」と訳しているのは、明らかに間違っている。
「autism」という単語は、「自身/自己/自動」を意味する「auto」と「主義/状態/特質」を意味する「ism」という、ふたつの要素で成り立っている。
「automation」は「自動化」だし、「automobile」は「自動車」、そして「autobiography」は「自叙伝」だ。いずれも自己完結的なニュアンスとなっている。
従って、「autism」とは自己完結的な気質、を意味する。つまり、立ち居振る舞いが他者の影響を受けていない、と言うより、そもそも他者を認識できていない。
脳の感覚処理機能が(言語にだけ)著しく偏ってしまっていて、他者が発する非言語的な情報(仕草とか表情とか声色とか)が認識できてなく、その結果、立ち居振る舞いが他者からすれば傍若無人・自己中・空気読めてない、という風に受け取られてしまう。
自分とは異なる他人、というものを認識した上で関わりを閉ざそうとするのではない。そもそも他人が自分とは異なる自意識や思考や感情を持っている、ということが(ハッキリと言葉で伝えられなければ)認識できないのだ。
従って、「autism」を意訳すれば、自律過剰・他者認識不全・非言語能力失調といった訳語になるが、これを「自閉症」などと誤訳している限り、そうした意味は全く伝わらない。
近年、遺伝学における「優性・劣性」という言葉は、本来は「遺伝しやすい性質・遺伝しにくい性質」という意味なのに「優れた性質・劣った性質」と誤解されやすい、ということで「顕性・潜性」と呼ばれるようになった。
しかし、「autism」が「自閉症」と誤訳されているがゆえに意味が正確に伝わらず、「他人との関わりを閉ざす性格」などという誤認がはびこり、単なる気の持ち様と扱われてしまっている。しかも、そうした問題は現在に至るまで等閑視されてしまっている。
ただでさえ日本では以心伝心だの阿吽の呼吸だのが美徳とされ、いちいち言葉で伝えるのは野暮の極みとされてしまいがちなのに、その上こうした誤訳が放置されたままでは啓発運動なんて何の意味も無い。論外・問題外だ。
結局、日本ではASDは救われない。
療育だの合理的配慮だの、そんな上等なシロモノを受ける機会なんて、50年生きてきて一度たりとて無かった。
ソーシャルスキルもメタ認知能力もクソ低いままで、どこへ行っても結局は厄介者扱いされるのがオチだった。
30代も半ばを過ぎてから成人発達障害外来で知られる昭和大学附属烏山病院で診断を受けて通院していた時期もあったけれど、申し訳程度の3分間診療で2000円取られるだけでクソの役にも立たなかったから辞めた。
障害者手帳も(提示すれば都営交通がタダになるから)一度だけ取得したけれど、提示する度に人として出来損ないだと公式に認定されたような気がして死にたくなってきたので更新しなかった。
50年生きてきて得られたものなんて、ただ、憎悪と劣等感だけだった。ろくでもない人生だったし、どうせロクな死に方もしない。今迄が今迄だ。