学校における情報教育の一環として、プログラミング教育が必修化されることになったが、これについては悲観的な見方をしている。一応、プログラマーとして丸十年働いていたこともあるけれど。
悲観的な見方をする理由は、そもそも日本における語学教育のあり方が、プログラミング教育とは真逆の性質のものであり、それゆえプログラミング教育との間に齟齬を来すと考えられるからだ。
日本における語学教育は、現在に至るまで一貫して、受信者向けの教育だった。母語の教育は一貫して「読解力の向上」を目的としていて、外語の教育は一貫して「和訳のための語学」だった。
「和訳のための語学」とは、海外の先進的な地域の文献を日本語に翻訳して、日本全体で広く読まれるようにするための語学、ということで、そのような「和訳のための語学」は、何も近代に入ってから誕生したものではない。そもそも前近代において長年に渡って日本人の基礎教養だった漢文訓読が「和訳のための語学」だった。いくら漢文を訓み下せるようになっても、それで支那人と会話できるわけではない(筆談はできるけど)。
日本の語学教育(特に外語教育)は読み書き偏重、と言われることが多いが、実際は読み取り偏重なのだ。書き手・話し手が何を伝えたいのかを正確に読み取れるようになることに重きが置かれている。一方、読み手・聞き手が読み取り間違いをしにくくなるような文章を作り上げるといった、発信者向けの教育、発信力の向上を目的とした教育は、現在に至るまで行われてはいない。
以前に、「ボトムアップとインテリジェンス」で、日本は「究極のボトムアップ型社会」と述べたが、そうした「究極のボトムアップ型社会」を下支えしてきたのは、読み取り偏重教育だった。一方、そのように語学教育が読み取り偏重になったことによって、読み手・聞き手の読解力の高さに甘えきった丸投げが横行するようにもなった。
日本が辺境の一小国だった頃は、それでも問題無かった。しかし、この150年間で日本は辺境の一小国から世界の先進国の地位にまで駆け上がったが、それに見合った発信力は学校教育レベルで育まれてこなかった。
プログラミングとは、何らかの作業をコンピューターに肩代わりさせるために、特定のプログラミング言語で書かれた手順書を作成すること、と定義できるが、そうした手順書を作成するにあたっては、個々の処理の内容やそれらを実行するための条件をこまめに一つ一つ定義して正確に記述することが求められる。しかし、読み手・聞き手の読解力の高さに甘え続けてきた日本人は、そもそもそうした手順書の類を、これまで人間相手ですら作成することを怠っていた。
コンピューターに、丸投げは通用しない。そして、語学教育が読み取り偏重で、読み取り間違いをしにくくなるような文章を作り上げる訓練がなされていなければ、コンピューターに作業を肩代わりさせるための手順書も作成できない。