日本の卓上ウォーゲーマーは国産ゲームが初めて出版された1981年に(早生れでなければ)中学校へ進学した1968年生れが最も多い——と、先月ちょっと触れたが、今回の話はその続きで、まずは具体的な証拠から。
日本の卓上ウォーゲーマー向け専用SNSとして2008年に開設されたMustAttackでは、メンバー検索機能で誕生年による検索ができる。そこで、2019年10月末時点で1951年生れ〜2000年生れを誕生年別に検索して、検索結果の人数をグラフ化すると、以下のようになる(2001年以降の誕生年は検索しても人数ゼロだったのでカット)。
MustAttackのメンバー数そのものは2019年10月末時点で1563人なのに対し、誕生年別による検索結果の人数の合計は591人なので、1000人近くが誕生年を入力していないし、その上、外国人のメンバーや、パスワードを失念してアカウントを取り直したメンバーもいたりするが、統計学上、サンプル数が591件あれば誤差の範囲は√(1÷591)≒0.0411で±4.1%ということになる。
誕生年別のメンバー分布は、1968年生れをピークとする極端な山型になっていて、しかも1968年生れが全体に対して占める割合は58÷591≒0.0981で9.8%、実に1割近くを占めていることがわかる。2019年暮れの時点での20代(1990年代生れ)の割合は6.9%、30代(1980年代生れ)の割合は13.7%、40代(1970年代生れ)の割合は30.5%、50代(1960年代生れ)の割合は45.9%、60代(1950年代生れ)の割合は3.0%ということになる。誕生年を入力していないメンバーや、更にはMustAttackのメンバーではない者も含めた、日本の卓上ウォーゲーマー全体の誕生年別分布も、おおよそ同様のものと考えられる。更に詳しく見てみると、他にも様々なことが見えてくる(以下、全て早生れは除外する)。
一定数以上のメンバーが存在し始める1958年〜1961年生れは、ホビージャパンが1972年に「欧米の最先端のホビー」という触れ込みでミニチュアウォーゲームを日本に紹介してから1974年にアバロンヒルのボードウォーゲームの輸入販売を始めた頃までに中学生だった世代と一致する。1962年〜1965年生れは日本でボードウォーゲームの輸入ビジネスがどんどん拡大していった時期に中学生だった世代と一致する。そして1966年生れの人数がその前後よりも落ち込んでいるのは、元々ひのえうまで出生数が少なかったこともあるが、1970年代末に円相場が円高から円安に転じたことに伴ってホビージャパンがアバロンヒルのボードウォーゲームの小売価格を軒並み1000円値上げしたことにより、マーケットの拡大にブレーキがかかったことも影響していると考えられる。また、そうした円安に伴った輸入ウォーゲームの価格上昇は1981年にバンダイ・ツクダホビー・エポック社が相次いで国産ウォーゲームを出版するようになった要因のひとつにもなった。
念のため、値上げの証拠をひとつ挙げておく。雑誌「ホビージャパン」に掲載されたアバロンヒルのボードウォーゲームの広告を見てみると、1979年には4800円だった「D-Day」「Waterloo」「Stalingrad」「Afrika Korps」「Midway」「The Battle of the Bulge」「Blitzkrieg」が、1980年には5800円に値上がりしている。
国産ウォーゲームが初めて出版された1981年の時点で中学1〜2年生だった1967年〜1968年生れの人数は、その前後よりも突出して多い。つまり、日本における卓上ウォーゲームの爆発的なブームは、実質1年程度しか続かなかった。ホビージャパンは1982年に卓上ウォーゲーム専門誌「タクテクス」を創刊しているが、同年にアメリカではSPIが倒産、そして翌1983年にはファミコンが発売されている。アメリカでは1970年代の10年間、卓上ウォーゲームの隆盛が続いたが、日本のそれはアメリカよりも遅すぎて、短すぎた。
そして、1973年生れの人数は1972年生れと比べて(どちらも第二次ベビーブーム世代に属するのにも関わらず)一気に半分以下にまで落ち込み、以後、人数はずっと低迷している。1973年生れが中学校に進学した1986年には「信長の野望・全国版」と「ドラゴンクエスト」が発売されている。前年の1985年暮れに「タクテクス」が隔月刊から月刊になっているが、同じ頃に「現代大戦略」と「スーパーマリオブラザーズ」が発売されている。加えて1985年以降、ファミコンソフトの年間タイトル数が50点を超えていて、本体の出荷台数も1985年と1986年に年間350万台を超えている。この時点で既に、コンピューターゲームにシェアを奪われ、新人の獲得に大幅に失敗していたと言えるだろう。
1973年生れ以降では、特に1976年生れ・1983年生れ・1987年生れの人数が大きく落ち込んでいるが、1976年生れが中学校に進学した1989年には「ソード・ワールドRPG」が発売され、1983年生れが中学校に進学した1996年には「Magic: The Gathering」の日本語版が発売され、1987年生れが中学校に進学した2000年には第1回ゲームマーケットが開催されている。ただでさえコンピューターゲームにシェアを大幅に奪われた上、卓上ゲーム界の中でも度々、TRPG・TCG・ユーロゲームに残りのシェアを奪われてきたと言えるだろう。
また、1968年生れは浪人や留年をしていなければ、1991年に四年制大学を卒業して就職している。1991年から1992年にかけて、日本で卓上ウォーゲームの専門誌が一旦全て休刊して国産ゲームも出版されなくなってしまったのは、こうした極端に偏ったボリュームゾーンが就職したことによるマーケットの急激な縮小が最大の原因だったと考えられる。逆に、2000年頃からいわゆる出戻りが増えてきたのは、極端に偏ったボリュームゾーンが10年働いて金銭的・時間的な余裕が生じてきたことが要因のひとつに挙げられる。だが、それから20年近く経った現在でも、依然としてボリュームゾーンが極端に偏っていることに変りは無く、しかも、高齢化している。
極端な偏りというものは、特殊な状況下で発生する。日本の卓上ウォーゲーマーについても同様のことが言える。1972年から1982年までの日本における卓上ウォーゲームを取り巻く環境は、相当に特殊なものだった。
まず、今ではもう忘れ去られてしまった感があるが、戦後日本の卓上ゲーム史上、ウォーゲームはいわば「黒船」だった。卓上ゲームと言えば囲碁・将棋・双六・麻雀・トランプ・花札といった戦前から存在するゲームばかりだった戦後日本の卓上ゲーム界に、戦後初めて、「欧米の最先端のホビー」という触れ込みで大々的に上陸した、全く新しいゲームだった(1970年代には「ホビージャパン」以外にも、ファッション雑誌・情報誌の「POPEYE」がボードウォーゲームを最新のアメリカンカルチャーとして度々誌面で紹介していた)。加えて、円相場が1973年に変動相場制に移行して円高が進み、輸入品がそれまでよりも入手しやすくなっていた。そして、コンピューターゲームはいまだ本格的に擡頭していなかった。こうした特殊な状況の下で卓上ウォーゲームは束の間、日本のゲーム界を席捲した。
例えば、今でも全国各地の大学にある「シミュレーションゲーム研究会」は、その多くが、極端に偏ったボリュームゾーンが大学に進学した1980年代後半に、主に卓上ウォーゲームをプレイするために設立されている。とっくの昔にTRPGやTCGやユーロゲームばかりプレイするようになってしまって久しい現在でも、名称変更の手続きが面倒という理由で多くはシミュ研を名乗り続けている(先月ちょっと触れた阪大シミュ研は1987年設立で、2019年にようやく「ボードゲーム研究会」に名称変更している)。つまり、戦前から存在するゲーム以外の卓上ゲームをプレイする大学生のサークルは、1980年代に一般化して、しかもその多くは設立当初はウォーゲームサークルだった(若干補足すると、国産ウォーゲームが出版される前の1970年代にもウォーゲームサークルは全国各地にあったが、これらは存続していない)。
しかし、現在の日本で卓上ウォーゲームを取り巻く環境は、その頃とは徹頭徹尾、異なる。ウォーゲームは「欧米の最先端のホビー」などとは認識されていないし、そもそも舶来品信仰自体が薄れている。卓上ゲーム界は多種多様なゲームで満ち溢れていて、その中でウォーゲームは圧倒的に少数派に属する。そして、そのような卓上ゲーム界よりも、コンピューターゲームのマーケットの方が遥かにデカい。当然、卓上ウォーゲームというものを紹介して新人を獲得する方法も違ってきて然るべき筈だが、依然として若年層が増えていないのは、競合する娯楽が多すぎるということもあるが、極端に偏ったボリュームゾーンが意識の転換を図れていないことも原因のひとつとして挙げられる。
まずそもそも、21世紀に入ってから新たに卓上ウォーゲーマーになった、数少ない貴重な若年層の声を全く拾えていない。極端に偏ったボリュームゾーンに属する、いわば旧世代の卓上ウォーゲーマーが、自らの卓上ウォーゲームとの出会いの経緯を語るといった内容の記事は、2000年代まで度々専門誌に掲載されていた。しかし、21世紀に入ってから新たに卓上ウォーゲームと出会った、いわば新世代による卓上ウォーゲームとの出会いの経緯に関する詳しい話はオンライン・オフラインを問わず、ほとんど見つからない。加えて、旧世代の卓上ウォーゲーマーは、自分が卓上ウォーゲームと出会うことになった経緯が、上記のような相当に特殊な状況下によるものだったということを、あまり認識していない。
「ホビージャパン」1972年8月号に記事が掲載された、日本で最初のミニチュアウォーゲームの公開戦の時のように、ウォーゲームのプレイに黒山の人だかりができるような事は、特殊な状況下での特異な現象で、もはや日本では再現できないと思って腹を括るべきだ。あれからもう、半世紀近く経った。この記事の写真の被写体も一人残らず、老境か鬼籍に入っている。
ゲームといえば基本的にコンピューターゲームを指すようになって久しい現在、わざわざ卓上ウォーゲームを選んだ者の視点や来歴は、極端に偏ったボリュームゾーンに属する者の視点や来歴とは大きく異なる筈だし、そうした新世代の声を拾わないまま、旧世代が自らの経験則だけに基づいて新人獲得の方法論をいくら説いても、そんなものは机上の空論に過ぎない。まず、新世代の声を徹底的に聞き取るべきだ。世代の断絶を認識しなければ、断絶を少しでも埋める方法も見つけられない。
追記
反響が大きかったので、補足として、それぞれの誕生年のメンバーが中学校に進学して13歳になった頃に起きた主な出来事などを注釈として最初の画像に追加してみた。
ちなみに、本稿は2012年の年初に書いたもの(2016年のサイト全面改訂時に一旦削除)のリメイクだったのだが、その時に使った、2012年1月1日時点でのMustAttackのメンバー(1960年〜1989年生れ限定)の誕生年別分布はこんな感じだった。