2019年を超えて

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中学2年の3学期から高校生の頃にかけて、大友克洋にドはまりしていた。丁度、「ヤングマガジン」での「AKIRA」の連載が(アニメ映画の制作と上映のために一時中断していたのが)再開したタイミングで読み始めたのがきっかけだった。

だから、作中の時代である2019年には45歳になっているとは当時から思ってはいたものの、見えないものの想像がつきがたいASDにとって30年後の未来というのは、あまりにも先のことすぎて具体的な想像がつかなかった。加えて、当時から既に生きづらさを抱えていて、30歳になる前に死んでも構わないと思っていたから、そこから先のことなんて、なおさら想像の埒外のことだった。

しかし、光陰矢の如しとは言ったもので、パトレイバーの1998年もアトムの2003年も、そして2019年も既に過去のことになってしまった。だから、この5年間というのは、かつて薄らぼんやりとしか想像できなかった未来の、更に先の全く想像外だった領域に図らずも突入してしまった5年間だった。

加えて、この5年間はコロナ禍もあって自宅待機を強いられたり、仕事場でも暇を持て余すことが多かった。そして、暇は無味無臭の劇薬とは言ったもので、そうして暇を持て余すと、これまでの人生における様々な失敗の記憶が次々と襲いかかってきた。

40代というのは、それまでの人生における様々な選択の良し悪しが明らかになる「答え合わせの季節」だと言える。そして、そんな答え合わせの結果は、散々なものだった。やるべきことをやりそこなったり、やるべきでないことをやってしまったり、それに加えて、選択をミスったということに気付くのも概ね遅く、ひどい場合は10年以上も選択ミスに気付くのが遅かったりした。

将来というものが想像し難いがゆえ、雑な生き方をしてしまい、結果、振り返ってみれば後悔ばっかりの人生になってしまった。加えて、気力も体力も落ちてゆく一方で、こんな八方塞がりな人生を好転させられるような目処も全く無い。

そして今日、とうとう50歳になってしまった。しかも夜明け前に夜尿を久々にやらかして目が覚めるという最悪な始まり方になってしまった。

こんな歳になるまで生きることになるとは思っていなかったし、こんな人生になってしまうとも思っていなかった。だからもう、こんな人生、いつ終わっても構わない。悔いがないからではない。悔いしかないからだ。

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