言語について

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1996年という割と早い時期から個人サイトを運用していて、しかも多言語サイトを構築するくらいだから、言語というものに対する意識は幼い頃から人一倍強かった、というより、強くならざるを得なかった。45年生きてきて振り返ってみれば、生れ育ってきた環境ゆえにそうならざるを得なかったように思える。

30歳を過ぎるまで、ずっと関西で生れ育ってきたけれど、関西弁が身に付かなかった。理由は3つ、あった。

第一に、純然たる関西人の家庭とは言い難かった。父方の実家は大阪の東成だったが、母方の実家は北海道の旭川だった。だから家の中で関西弁を聞く機会は少なく、むしろ「ゴミを投げる」といった北海道弁を聞くことの方が多かった。お好み焼きも、ほぼ毎週のように作ってはいたけれど、フライ返しでひっくり返して、ホットプレートから大皿に移し替えてナイフとフォークで食べていた。

第二に、関西弁の話し言葉よりも標準語の書き言葉に触れる機会の方が多かった。両親にとって最初の子供だったがゆえに、子育てに力が入りすぎていたのか、物心つく前から毎晩寝る前に絵本を読み聞かせられ、幼稚園児の頃から図書館へ連れて行ってもらい、小学校に進学すると学研の「科学」と「学習」を買ってもらっていた。加えて、父親が大手製紙会社で新聞用紙の販売部門に勤めていて、取引先からしばしば定期購読のタダ券を貰っていたから、小中高の間に日経以外の全国紙は一通り読んでいた。

そして第三に、自閉症スペクトラム障害(ASD)であることが挙げられる。「自閉症は津軽弁を話さない」という研究書が2017年に出版されていて、本書の研究をきっかけに、そもそもASDは周囲の人間よりもメディアを介して言葉を習得する傾向が強いので方言を話さない、という指摘が多くなされている。実際、その通りだと思う。

関西で生れ育っていながら、関西弁が使えないと、それだけで浮いてしまう。子供の世界なら尚更で、だから、自分と周囲の言葉の違いというものを幼い頃から意識せざるを得なかった。自分の方が標準的な日本語を使っている筈なのに、標準的ではない方言を使っている同級生が多数派を占める教室の中で、ずっと少数派として扱われたことは、人格形成の上でも大きな影を落してしまった。東京で生れ育っていたら、それほど屈折することは無かったかもしれない。

日本語以外の言語を意識するきっかけとなったのは、家族との遊びだった。小学生から中学生の頃にかけて、家族でしばしば、ババ抜きやポーカーや七並べで遊んでいた。使っていたのは、両親が新婚旅行の道中で手に入れた、ノースウエスト航空の「会話トランプ」だった。1枚1枚に、海外旅行でよく使うフレーズが日本語・英語・支那語・朝鮮語で書かれていた。今の自分には読めないけれど、海の向こうにこうした言語を読み書きする人がいる、ということを、遊びながら意識した。

繁体字は小学生の時に、図書館で復刻版の「のらくろ」を読んで覚えた。1980年代当時、図書館は基本的にマンガを購入していなかったが、1969年に復刻版が出版された「のらくろ」は、歴史的資料として購入する図書館が少なくなかった。簡体字は中学生の時に、新聞委員になって学校新聞の制作に関わるようになってから買った、共同通信社の「記者ハンドブック」に収録されていた簡体字の対照表を見て覚えた。そして高校生になってから朝鮮語の独学を始めた。

自然言語ではない人工言語を意識するきっかけとなったのは、小学生の時に同級生から借りたMSXだった。1970年代生れの多くは、1980年代にファミコンかMSXのどちらかを親にねだって買ってもらった経験を持っている。図書館でBASICのプログラミング本を読んで、書かれているソースコードを実際に走らせてみたくなったから、1週間限定で自宅のファミコンと交換してもらい、何度も入力ミスを繰り返しながら、BASICのプログラムを実行させた。プログラムを正しく書けば正しく実行して、間違って書けば間違って実行してくれるパソコンは、関西弁という標準的ではない日本語を使う同級生よりも、裏表が無くて正直な、遥かに話が通じやすい相手のように思えた。

高校生の頃になると、編集者を志すようになり、出版関係や日本語関係の書籍を片っ端から濫読した。一浪を経て大学に進学すると、DTPの技能を身に付けるために学内のMacをいじり倒して、ゼミのレジュメもPageMakerで作った。バイトの収入でMacを次々に買い漁ったが、当時のMacは多言語環境を構築するには言語毎にランゲージキットを別途購入しなければならなかったから、それも日本橋や秋葉原で買い漁った。挙句、VirtualPCBTRON・超漢字まで導入した。同時に、必修科目だった支那語や朝鮮語の他にもアラビア語やドイツ語やラテン語やロシア語やモンゴル語をかじった。

Macをいじり倒す内に、Mac用のソフトウェア開発にも興味を抱くようになり、大学在学中にアカデミック版CodeWarriorでMac用のアプリを開発するまでになった。ほぼ同時に、インターネットにも触れた。ホームページの作り方を独学して、3回生の夏休み真っ最中の1996年8月1日、大学のサーバーを間借りして個人サイトを開設した時、これでもう編集者にならなくてもいいんじゃないか?と思った。結局、大学卒業後は編集者ではなく、プログラマーを10年余り勤めた。

言語やメディアというものに対する人一倍強い興味の根底には、コミュニケーションの不全感があった。同じ日本語を使っている筈なのに、周囲に思いや考えが伝わらないという悲哀が、もっと広く、もっと遠くへ自分の言葉を発信したい、という衝動を駆り立てて、最終的に個人サイトの開設にまで至った。あれから20数年、今、この言葉は、どこまで届いているのだろう?

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