終戦の詔勅について・その2

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先週の続きで、終戦の詔勅の不自然な箇所とは……という話の前に、まず、ポツダム宣言に対する日本の対応の経緯を振り返ってみる。

ポツダム宣言(正式な名称は「Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender=日本への降伏要求の最終宣言」)は、1945年(昭和20年)7月17日から8月2日までドイツ・ベルリン郊外のポツダムで開催されたポツダム会談の最中、7月26日に発表されたが、その受諾の可否を討議する御前会議は8月10日に開催されて、そこで宣言受諾の聖断が下され、更に8月14日に再び同内容の御前会議が開催され、再度、宣言受諾の聖断が下された。

まずここで、引っ掛かる。原爆投下が日本に対する決定打だったのであれば、御前会議は8月6日か7日にでも開催されるのが筋だろう。しかし、実際には8月10日に開催されている。加えて、既に7月までの時点で日本の主要な都市はあらかた空襲で焼け野原になっていた。使われたのが「新型爆弾」とはいえども、原爆投下は「都市に対する戦略爆撃」という観点では、ただ単に焼け野原になった都市がひとつふたつ増えただけに過ぎない。そして、8月9日未明のソ連対日参戦の報を受けた鈴木貫太郎総理大臣が、同日に開かれた最高戦争指導会議の冒頭、「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べている。

日本とソ連は4年前の1941年(昭和16年)に日ソ中立条約を結んでいたので、8月9日まで日本はソ連の仲介による和平工作で講和が成立することを一縷の望みとしていた。ソ連対日参戦は、その最後の望みが絶たれたことを意味していた。更に言えば、ソ連対日参戦は講和成立の最後の望みが絶たれたというだけでなく、江戸時代末期から続いていた対ロシア防衛が遂に破綻の危機に陥ったということを意味していた。

江戸時代末期以降、日本にとって最大の仮想敵国は、一貫してロシアだった。1853年(嘉永6年)のアメリカのペリー艦隊による黒船来航よりも半世紀以上前、18世紀末からロシア帝国は度々、アダム・ラクスマンニコライ・レザノフを日本に送って通商や国交の成立を図り、それに対して徳川幕府は伊能忠敬間宮林蔵に蝦夷・樺太・千島さらにはアムール川までも探索させていた。

明治に入ってからも、かつてモンゴル帝国が高麗を征服して、そこを足掛かりに日本へ攻めてきたように、ロシア帝国が満洲そして李氏朝鮮を征服して、そこを足掛かりに日本へ攻めてくる……というのが、大日本帝国の安全保障上、最大の脅威だった。日露戦争の劈頭、仁川沖海戦で日本海軍はロシア海軍の巡洋艦「ヴァリャーグ」と砲艦「コレーエツ」を沈めるに至ったが、「コレーエツ(Кореец)」とはズバリ、「高麗」を意味する。自国の軍艦に「高麗」などと命名するロシアが隙あらば満洲そして李氏朝鮮を征服する気満々だったことは明々白々だった。そんな事態になれば、世界最大の陸軍、そして不凍港を確保して冬でも自由に行動できるようになった艦隊が、釜山にまで迫ってくることになる。

韓国併合も、シベリア出兵も、満洲事変も、すべては「ロシアをなるべく日本本土に近付けさせない」ことが主目的だった。加えて、ロシア革命によって皇帝が一家まるごと処刑されたことによって、日本の皇室をおびやかす存在としてのロシアに対する日本の警戒感は一層高まった。

しかし、ソ連対日参戦によって、「ロシアをなるべく日本本土に近付けさせない」という長年の努力は全て水泡に帰することになってしまった。連合軍による日本本土への上陸を企図した「ダウンフォール作戦」は、九州上陸の「オリンピック作戦」が11月に、関東上陸の「コロネット作戦」が翌年春に実施が予定されていたが、それより前にソ連軍が北海道に上陸する可能性もあった。

ところが、これほどまでに重大な出来事だったのにも関わらず、終戦の詔勅ではソ連対日参戦について、不自然なことに、全く一言も触れていない。

こうしたことから、次のような推論が成り立つだろう。すなわち、実はソ連対日参戦こそが日本に対する決定打だったのだが、そのことは隠蔽しなければならなかったので、代りに原爆投下が日本に対する決定打だったかのごとく仕立て上げられた……と。

そのような隠蔽と仕立て上げをしなければならなかった理由は…………またもや来週に続く。

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