卓上ウォーゲームとの出会いが小学2年生だった1982年で、夏休みに母方の実家である旭川へ帰省する途中、札幌に住む叔父の家へ寄った時に、叔父が持っていたエポック社のワールドウォーゲームシリーズ第7作「ドイツ戦車軍団」を譲ってもらったことがきっかけだったことは、以前にも触れた。
そして、高校に進学した1990年になってようやく、地元の関西で卓上ウォーゲームを取り扱っている店の情報を手に入れた直後は、「ドイツ戦車軍団」に同梱されていたワールドウォーゲームシリーズのカタログに載っていたゲームを次々と買い漁った。しかし、日本の卓上ウォーゲーム市場は1990年代に入ってから急速に冷え込んでしまったため、キデイランドの梅田店で一度だけ目にした「バルジ大作戦」と神戸三宮のワークで一度だけ目にした「日本機動部隊」は、結局どちらも買い逃してしまった。21世紀に入って、コマンドマガジンによって再版されたものを手に入れるまでは、このことは苦い思い出だった。
1980年代に出版された国産の卓上ウォーゲームの内、エポック社のワールドウォーゲームシリーズ、とりわけ鈴木銀一郎と黒田幸弘が共同で設立したレック・カンパニーによって開発されて1985年頃までに出版されたものはエポッククラシックスと呼ばれ、大部分が再版されている。2009年に「日本におけるウォーゲーム・ブームを支えた優れた国産ゲームをいつでも買えるように」というコンセプトでスタートしたジャパン・ウォーゲーム・クラシックス(JWC)も、これまでのところ、ラインナップは全てエポッククラシックスの再版で占められている。
エポッククラシックスでウォーゲームと出会い、加えて、21世紀に入ってからアジアの卓上ウォーゲーマーと交流するようになったので、この、国産ウォーゲームの古典を海外にも伝えたいと思い、2013年に「ドイツ戦車軍団」のJWC版ルールの翻訳に着手した。しかし、着手した直後、元のエポック版に起因する地名のミスに気が付いた。
エポック版「ドイツ戦車軍団」は「エル・アラメイン」「ダンケルク」「ハリコフ攻防戦」の3つのゲームで構成されているが、その中で「エル・アラメイン」のマップ上に「エル・ハマン El Hamann」という名前の集落が印刷されているが、実は「エル・ハマム El Hamam」が正しい。そして、「ハリコフ攻防戦」のマップ上にあるサドンデス都市の「ドニエプロペトロフスク」も、「Dnepro Petrovsk」と2語に分けて印刷されているが、「Dnepropetrovsk」と1語で綴るのが正しい。どちらも、ルールを英訳する過程でGoogleMapsやウィキペディアを使って綴りを確認してみた時に気が付いた。結局、BoardGameGeekで公開した翻訳ルールでは正しい綴りにしておいた。
翌2014年に、今度は「バルジ大作戦」のJWC版ルールの英訳に着手したが、またしても地名のミスに気が付いた。マップ上の重要都市である「サン・ヴィット」が「St. Vit」と印刷されているが、英語では「St. Vith」、ドイツ語では「Sankt Vith」、フランス語では「Saint-Vith」で、「St. Vit」と綴る言語は無い。
戦闘序列もあちこち間違っていて、ドイツ軍の第6装甲軍が「第6SS装甲軍」となっているが、バルジ戦の時点では指揮官こそSSではあるものの部隊そのものは国防軍所属で、部隊まるごとSSの所属になったのはバルジ戦から3ヶ月経った1945年の4月だった。また、フォン・デア・ハイテの降下猟兵ユニットが旅団扱いになっているが、ハイテは連隊長を歴任したものの、旅団長になったという話は無い。ハイテが指揮を執ったシュテッサー作戦の参加人数は1300人程度だったので、その点でも旅団(通常は1500〜6000人程度)扱いは過大評価だと言える。
加えて、参考文献として挙げられている「German Army Order of Battle 1939-45」の著者が「Peter Madej」になっているが、「W. Victor Madej」が正しい。結局これも、BoardGameGeekで公開した翻訳ルールでは「St. Vith」「6th Panzer Army」「W. Victor Madej」にしておいた。
海外の地図や戦史資料が入手しづらかった時代の、リサーチ面での限界を垣間見た気がした。アメリカで2003年に出版され、バルジ戦ゲームの中でも特に評価が高い「Ardennes ’44: The Battle of the Bulge」と比較すれば、明らかに見劣りする。もはや「これが日本のボードウォーゲームのベスト&ブライテストです!」などとは、とてもじゃないが言う気にはなれなくなってしまった。
エポッククラシックスは、ゲームとしては、ものすごく良く出来ている。国産のボードウォーゲームとしては、恐らく最も数多くプレイテストを重ねていたのだから、それは当然だと言えるだろう。だがその一方で、リサーチ面では1970年代までの古い資料に基づいていたがゆえ、戦史のシミュレーションとしては今では大きく見劣りするし、それ以上に、戦史上の「派手な(、しかし具体的な戦果については疑問符が付く)エピソード」にゲームデザインが引きずられてしまっていると言える。エポッククラシックスの中でも、鈴木銀一郎が最初にデザインした「朝鮮戦争」を見てみれば、一層それが明確になってくる。出版されたのは「バルジ大作戦」や「史上最大の作戦」の方が先だったが、デザインそのものは「朝鮮戦争」の方が先だった。そして、「作家はデビュー作に全てが表れる」とも言う。つまり、「朝鮮戦争」のゲームデザインを詳しく見てみれば、鈴木銀一郎やエポッククラシックスのゲームデザインの性格といったものが見えてくる。
韓国各地の朝鮮戦争に関連する記念碑や記念施設を300箇所ほど巡り、その成果をウィキで公開するくらい、朝鮮戦争に関してはそれなりに一家言あるので、以下、戦史のシミュレーションとしての「朝鮮戦争」の問題点を片っ端から挙げてみる。
鈴木銀一郎の「朝鮮戦争」というと、実際に一度でもルールに目を通した人であれば、「マンセー突撃」のルールを思い浮かべる人が少なくないだろう。しかし、マンセー突撃なるものが、米軍や韓国軍の公刊戦史には全く出てこないので、実際にあったとしても極めて局所的な出来事だった可能性が高いということは、既に「マンセー突撃という幻」で論じた。
また、韓国軍に3つ与えられている司令部ユニットの内、白善燁の司令部のみ、韓国軍ユニットと米軍ユニットを司令部と同じヘクスに混在させられるという例外規定が設けられていて、これは白善燁が英語に堪能で、米軍から「Whity」という愛称で呼ばれていたというエピソードを踏まえたものなのだろうが、しかし一国の軍隊同士の連携というものは、一指揮官の英語力云々でどうにかなるものではない。実際には、米軍内の日系将兵と、5年前まで日本人だった韓国軍将兵が、現場レベルで日本語によるコミュニケーションをとっていたことによって、米軍と韓国軍の連携が下支えされていた可能性が高い、ということは、これもまた既に「日本語と朝鮮戦争」で論じた。
韓国軍ユニットと米軍ユニットの大きな違いとして、北朝鮮軍の戦車ユニットを韓国軍ユニットは足止めできないことになっているが、実際には米軍も当初配備されていた2.36インチバズーカでは北朝鮮軍の戦車に太刀打ちできず、開戦から約1ヶ月経った大田の戦いで初投入された3.5インチスーパーバズーカでようやく太刀打ちできるようになった。ゆえに、米軍も第3ターンまでは北朝鮮軍の戦車ユニットを足止めできない、とするのが妥当だろう。
そして、漢江橋の爆破に関するルールが設けられているが、これは6月28日に漢江橋が爆破され、同日に北朝鮮軍がソウルを占領した後、すぐには漢江を渡河しようとせず、6月30日になってから渡河作戦を始めた、ということに基づいているのだろうが、北朝鮮軍がソウル占領後、すぐに漢江の渡河を始めなかったのは、漢江橋が爆破されたからではない。実際には鉄道橋が残っていたので、速やかな渡河は実行しようとすれば可能だった。しかし北朝鮮軍の当初の作戦計画では、そもそもソウル占領後、即座に漢江を渡河する予定ではなかったらしいことが現在では明らかになっている。北朝鮮軍は西部の第1軍団と東部の第2軍団に分けられていて、当初の作戦計画では第1軍団が速やかにソウルを占領・第2軍団が江原道を南下→韓国軍の残存部隊が漢江南岸に集結してきたところを第2軍団が背後に回り込んで第1軍団と共同で挟み撃ち、という予定だったのが、第2軍団が南下に手間取ったため、第1軍団も漢江北岸に留まってしまった、というのが真相だったらしい。
結論として、「朝鮮戦争」の様々なフレーバーは、戦史のシミュレーションというよりは悪しきカリカチュアライズだと言わざるを得ない。そしてそれは、鈴木銀一郎の他のウォーゲームや、エポッククラシックスの他のウォーゲームに関しても、同じことが言える。「朝鮮戦争」での北朝鮮軍の特殊大隊や「バルジ大作戦」での武装親衛隊コマンド部隊といった、特殊部隊による攪乱が史実よりも大幅に効果を発揮してしまうのも、そうした悪しきカリカチュアライズだと言えるだろう。ゲームとしては面白くなるけど。
そして、ソ連崩壊後、ロシアで新たに公開された資料によって、独ソ戦や日露戦争や朝鮮戦争の戦史研究は大幅に進んでいて、アメリカではそうした最新の戦史研究に基づいたウォーゲームの新作も次々に出版されている。一方、日本では未だ1970年代レベルの古臭い戦史観がウォーゲーマーの間ですらはびこっていたりする。
鈴木先生亡き後、ウォーゲーマーはどうすべきか。「先生の作品をプレイしつづけるんだ」という人もいるかもしれません。素晴らしいです。ただ、私は少し違います。
私も世のウォーゲーマーの皆さんも、遅かれ早かれ、いずれは世を去って鈴木先生と再会することになります。そのときにどう言ったら喜んでもらえるか。私はこう言いたいですね。
「さらに面白いウォーゲームがいっぱい出て、先生の作品はあんまりプレイされなくなったんですよ」
鈴木先生は「それはよい時代になったね」と言ってくれるはずです。もし不機嫌な顔をしたら、それはそれでまた面白いですけど(^_^;)
鮫さんのこの言葉に、全面的に同意する。いつまでもエポッククラシックスを不朽の名作であるかの如く崇め奉るというのは、1990年代以降の最新の戦史研究の成果を採り入れた新たなスタンダードを、何十年経っても生み出せず見つけ出せていないということであり、恥ずべきことなのだ。
追記
エポッククラシックスは司馬遼太郎の小説と似ているような気がする。間違いなく面白いのだけれども、その面白さは功罪相半ばしてしまっている。