2018年11月3日の昼過ぎ、学園祭真っ最中の日本大学神田三崎町キャンパスへ向った。目的は日大戦史研主催の高梨俊一講演会「歴史ゲームを通して歴史を見る」。
四半世紀前、まだ関西の実家暮しだった学生時代、「シミュレイター」での連載「シミュレーションゲーム批判序説」を折に触れて再読三読していたので、その著者によるヒストリカル(ウォー)ゲームに関するナマの講演が聴けるという滅多に無い機会を逃す術は無いと、早めに会場入りした。
しかし2時間後、期待は失望に変った。講師業を長年勤めてきたくせに時間配分がグッダグダで締めくくりが駆け足かつ尻切れトンボに終ったことや、質疑応答でイタい佐藤大輔ファンがしゃしゃり出てきたことも興醒めだったが、何より失望したのは高梨が講演の中で挙げたゲームがことごとく20世紀に出版されたものばかりだったことだった。
例えば、中世ヨーロッパの宗教改革をテーマとしたゲームとして、高梨はSPIが1977年に出版した「A Mighty Fortress」を挙げた。しかし、現在では宗教改革をテーマとしたゲームとしては、GMT Gamesが2006年に出版した「Here I Stand」の方が何度も版を重ねていて、評価も高く、入手もしやすい。それを差し置いて今更そんな古いゲームかよ……と思った。
加えて、高梨は旧ソ連の政治権力闘争をテーマにした「Kremlin」(初版は1986年)や、中南米諸国の政治的腐敗をテーマにした「Junta」(初版は1978年)も講演の中で紹介したが、どちらも昔に出た古いゲームという扱いで、これらが全て、最新版のしかも日本語版がニューゲームズオーダーやホビージャパンから出版されていて新品が手に入るということについて、一言も言及しなかった。
更に、21世紀のまさに幕開けの年である2001年に始って今もなお続く、現在進行形の歴史的事象である対テロ戦争と、それをテーマにGMTが2010年に出版した「Labyrinth: The War on Terror, 2001 – ?」についても、高梨は一言も言及しなかった。対テロ戦争も既に10年以上が経ち、アメリカでは正規の軍隊と非正規のゲリラやテロリストによる非対称戦争をテーマにしたゲームが花盛りであるのにも関わらず、「歴史ゲームを通して歴史を見る」と銘打っておきながら同時代史はスルーかよ、と思った。
大いに不満の残る内容だったが、それから1年3ヶ月後の2020年2月15日、新宿のネイキッドロフトで開催されたトークライブ「〇〇とウォーゲームと独ソ戦」において、高梨はまたしても壊れた蓄音機のごとく、宗教改革をテーマとしたゲームとして「A Mighty Fortress」を挙げてきた。疑念は確信に変った。こいつ21世紀に入ってからの新作・リメイク・再版について全く把握してねーだろーが。
21世紀も既に20年経った。5分の1だ。この20年間で非対称戦争や対反乱作戦やサイバー戦争が現実に増えてきたことを反映して、それらをテーマにしたウォーゲームも増えてきた。メジャーなパブリッシャーの顔ぶれも一変し、欧米のみならずアジアでも新興メーカーが擡頭してきた。加えてパソコンとインターネットを使った通信対戦ツールも一般化し、卓上ウォーゲームを取り巻く環境は20世紀の頃と比べて激変している。
そうであるのにも関わらず、この20年間の出来事、この20年間のゲームについて全く言及しないというのは、単なる知的怠慢だ。騏驎も老いては駑馬にも劣る。そしてそんな駑馬にも劣る老いた騏驎の繰り言を、ギョーカイのジューチンのゴコーセツハイチョーとばかりに有り難がる取り巻き連中も取り巻き連中だ。加齢臭を通り越して死臭と腐敗臭が漂っている。
俺のことを、「年上を異常に目の敵にしている」と思っている奴が少なくないことぐらい、こっちは把握済みだ。Twitterのエアリプだって確認済みだ。だから答えてやる。実際こういう古臭いネタしか持ち合せていない前世紀の遺物が居座っているから目の敵にしてるんだ。
俺は仕事でも何でも、アンテナ張り巡らさずに同じやり口を惰性でダラダラ続ける奴が大っっっ嫌いだ。先週の「記憶から記録へ」にも関連するが、第二次世界大戦が記憶から記録になってしまい、広く共有されるコンテクストではなくなってしまったということを認識せず、卓上ウォーゲームの最初の一作目として安直に二次大戦ものをすすめ続ける奴も同類だ。同じやり口を惰性で続けるしか能が無いんだったらすっこんでろ。