とりあえず、冒頭に「War-Gamers Advent Calendar 2024」へのリンクを張っておく。
小学2年生だった1982年に「ドイツ戦車軍団」を偶然手に入れたものの、小中学生時代には販売店にも専門誌にも同好の士にも出会えず、高校生になった1990年に「タクテクス」を読むようになって巻末に掲載されていたクラブ情報を元に大阪大学のシミュ研に出入りするようにはなったものの、阪大に進学できる程の学力は無く、「シミュレイター」で頻繁に名前が出てくる立命館大学に入った、という話は今迄何度かしてきたけれど、具体的な立命シミュ研での日々についての話はしてこなかった。
今年は50歳の節目の年ということもあって、発達障害持ちとしての人生を振り返ってみたり、キャンパスライフを振り返ってみたりしていたので、その延長として、立命シミュ研のことも振り返ってみる。とはいえ、その思い出は、ただひたすら苦い。
実は、入学前のまだ予備校通いの浪人生だった1993年の時点で、立命シミュ研の定例会には一度訪問していた。京都の衣笠キャンパスの学生会館で土曜日に開催されていた定例会は20人近いメンバーでひしめき合っていた。しかし、実際にはそのメンバーの大多数は理系だったということに、その時点では気付いていなかった。
翌1994年に文学部史学科の東洋史学専攻に合格して入学すると、理工学部は滋賀に新設されたびわこ・くさつキャンパス(BKC)に移転していて、シミュ研の文系理系合同の新入生歓迎会はBKCのお膝元、JR南草津駅前の理系のメンバーが多く住んでいる下宿で開催された。が、そこで広げられていたのはウォーゲームではなく「スコットランドヤード」だった。
そして、新人を複数迎え入れてにぎやかな理系とは対象的に、文系の新人は他に誰もいなかった、先輩も文学部と法学部でそれぞれ一人ずつだけしかいなかった。しかも、どちらも既に卒論やら就活やらでほとんど姿を見せず、衣笠キャンパスでの文系の定例会は閑古鳥が鳴いていた。前年との落差に愕然としながらも、文系の新規メンバーを獲得するための勧誘活動を、ノウハウを教わる機会も無いままに、たった一人で始めた。
手始めに、A4フルカラーのチラシを作ることにしたが、まだ文学部の学部棟に隣接するオープンパソコンルームでMacを使い始める前だったので、版下はアナログ作業で作ることにした。まず、文学部の自治会室にあったワープロ専用機を借りて感熱紙にキャッチコピーや説明文などを打ち出した(全くの余談だが、この時に自治会側の執行委員で対応してくれたのは京都を中心にチェーン展開している食肉専門スーパー「やまむらや」の社長の息子(現在は二代目社長)だったのだが、在日三世でウォーゲームも知っていた)。
そして、SSシリーズの「北海道侵攻」のマップとユニットとマーカーをフルカラーでコピーして、先に打ち出した感熱紙と共にA4の白紙に切り貼りして版下を作った。
こうして版下は完成したが、当時はカンプリを知らず、プリントパックやグラフィックのようなオンライン入稿の格安印刷サービスはまだ無かった。フルカラーで等倍コピーすることにしたが、当時はフルカラーのコピー料金は1枚500円という、現在の10倍の価格だった。そこでBKCでの理系の定例会を一人で訪問して文系の広報活動費として1万円をもぎ取って、A4フルカラーのチラシを20枚コピーした。
しかし、当時の衣笠キャンパスは国際関係学部の学部棟を除いて掲示板でのチラシ貼りには特に許可を取ったりする必要が無く、そのため、掲示板を使ったサークルの宣伝活動はリソグラフで更紙にモノクロ印刷したチラシを大量に貼りまくって掲示板をジャックするという方法が一般的だった。
そんな、ビックリマンチョコのシールの貼り合いみたいな環境でフルカラーのチラシをポツンと1枚貼ったところで、すぐに他のサークルのチラシが次々と重ね貼りされて埋没してしまい、何の成果も挙げられなかった。初手から大失敗してしまった。
その後は、他のサークルと同様、更紙のモノクロ印刷に切り替えたが、相変わらず土曜日の定例会には誰も来なかった。1994年から土曜日は原則休講になっていた上に、バブル崩壊で週末はバイトを入れている人も少なくなかったから、平日に説明会だけでも設けておくべきだったのだが、当時はそうしたことに全く気付いていなかった。
だから、長期休暇期間以外の毎週土曜日は、朝に学生会館での定例会会場の部屋の鍵を学生課で受け取って部屋を開き、一人ぽつねんと近くの左大文字を眺めたりしながら無為に時を過ごし、昼頃に1階のカフェ「ゆんげ」で名物のデカパフェを食って胸焼けを起こし、夕方に部屋を閉めて鍵を返してとぼとぼと帰宅する途中、西院や北野白梅町の天下一品に寄る、というのが毎回のパターンになっていた。
「シミュレイター」に寄稿していた池田先輩・新保先輩・松家先輩といったOBが来ることもほとんど無かった。唯一、石原先輩だけが制服姿でフラリと訪れてきたことがあった。
夏季休暇には、JR湖西線沿いの琵琶湖蓬莱セミナーハウスで文系理系合同の合宿が開催されていたが、周りは普段接していない理系のメンバーばかりだったから、気後れして全く関われなかった。理系のメンバー達は「銀と金」「アカギ」「天」の単行本を大量に持ち込んでゲームそっちのけで回し読みしていたが、クセの強い絵柄に拒否反応を起こしてしまい、手に取ることも無かった。夜が更けても盛り上がっている理系のメンバー達を尻目に一足早く布団の中に潜り込むと、誰かが夏コミで入手したと思われる伊武雅刀のMADテープをラジカセで流して、理系のメンバー達は更に盛り上がっていた。
「ヤマトの諸君……私は子供が嫌いだ!」
秋が過ぎ、冬が終わると、4月の第1週は学内の各種サークルの新歓期間で、衣笠キャンパスではこの期間中、大学側が指定した道路脇に新歓ブースを設けることが許可されていたが、いつも申請が遅れてしまって、新入生たちが頻繁に往来するコースからは微妙に外れた残りカスの場所ばかり割り当てられてしまった。支給された長机にAHやVGのボックスゲームを所狭しと並べても、立ち止まる人は誰もいなかった。この時期の京都市内は天気が変わりやすく、特にすぐ北西が山になっている衣笠キャンパスでは晴れていても時折小雨が降ってきて、誰も手に取ることの無いウォーゲームの箱を、涙のようにかすかに濡らした。
キャンパスの外側でも、ウォーゲームを取り巻く状況は悪化してゆく一方だった。高校生の頃から阪大シミュ研で得られた情報を元に、四条通りのジュンク堂とブックストア談、梅田のキデイランド、ホビットの八尾本店と梅田店、でんでんタウンのエキサイト、三宮のワークといった京阪神のウォーゲーム取扱店を回っていたのだが、高校卒業前に「シミュレイター」も「タクテクス」も休刊してしまい、これらの店舗で売られているウォーゲームも減る一方だった。
そして、そんな閉塞感に追い打ちをかけたのが、阪神大震災だった。
震災前の神戸では、女性ウォーゲーマーのはしりである「りりぃ♪まるれん」のユリさんが阪急の三宮駅近くでゲーム会を主催していたので、お邪魔したことがあった。また、震災の3ヶ月程前には同じく阪急の伊丹駅近くでガンダムゲーム限定のコンベンションが開催されていたので、アニメゲームには全く造詣が無かったものの、ちょっと様子を見に伺っていた。
だから、震災の翌月、全壊した三宮駅や伊丹駅が解体されてゆく映像をテレビのニュースで目にした時、これでもう何もかも終わってしまった、という喪失感に陥った。三宮のエンジョイスペースギルド(震災後はマンガ専門書店になったが創業当時はウォーゲームやTRPGを取り扱っていた)は浪人生だった時に一度訪れた際、店員から極めて侮辱的な対応を取られたので、全壊したと知った時にはざまあみろと思ったが、そう思ってしまう自分自身にも嫌悪感を覚えた。
そうした閉塞感から、ウォーゲームに対して投入するカネと時間は減ってゆき、入れ違いにMacに対して投入するカネと時間が増えていった。高校生の時に編集者を志すようになり、大学でDTPの技能を身に着けようとMacに触れたところ、Macそのものにドはまりしてしまって遂にはプログラミングにまで手を出すようになった。結果、でんでんタウンはエキサイトではなくMac関連の店を回る時間が増えていった(震災の前日にも上新電機のUSランドでアップルのアイコンマグカップを買っていた)。
その阪神大震災の少し前、1994年の暮れに「コマンドマガジン日本版」の創刊を出版元が告知する広告がホビットの梅田店にあったものの、広告に添えられた「学校や教科書では絶対に教えてくれない歴史がある。」というキャッチコピーが極めて月並みで凡庸で紋切り型で手垢の付いた言い回しに見えて却って嫌悪感を覚えてしまい、全く買う気にならなかった。
京阪神のウォーゲーム取扱店で最も足繁く通っていたのがホビットの梅田店だったけれど、そんなこともあって、結局は同じビルのすぐ下の階に開店した信長書店をひやかす時間のほうが長くなった。
また、当時はまだ同人誌だった「ゲームジャーナル」は浪人生の頃に存在を知り、編集長の中村徹也とは1回生の夏季休暇の時に初めて会って半年程関わったものの、結局喧嘩別れした。だから、同人GJもコピー誌からオフセット印刷に移行した第34/35合併号以降、全く読まなかった。
琵琶湖蓬莱セミナーハウスの合同合宿では、顔を合わせる度に「田村君は中興の祖だから」と声を掛けてくる先輩もいたけれど、そんなことを言われる度に、却って気分が重くなってしまった。具体的な成果なんて何も無かったし、具体的なことを教わる機会も無かったから。
3回生の夏季休暇の真っ最中だった1996年の8月に、大学のサーバーを間借りする形で個人ホームページを開設した。ウォーゲーム関連のリンク集などのコンテンツも一応作っていて、それは現在のこのサイト内でのウィキのコンテンツの源流にもなっている。しかし、既にこの時点で学生生活はMac最優先になっていた。
同じ頃、大学生協の書籍部で何気無く「ヤングマガジン」を手に取った。学生生活がMac最優先になってからは雑誌もMac専門誌ばかり読むようになっていて、マンガ雑誌を全く読まなくなっていたのだが、気まぐれにパラパラとページをめくっていると、シミュ研の合同合宿でさんざんチラ見したのと同じ絵が目に飛び込んできた。
それは「賭博黙示録」の限定ジャンケン篇で、カイジがバランス戦略派を偏ったカードでハメる下りだった。面白さに驚愕すると共に、合同合宿で福本マンガを手に取らなかった見識の浅さを恥じた。
しかし、この時点では既に理系との連絡は全く途絶えてしまっていて、そもそも滋賀で新歓や合宿が開催されているのかどうかすら、わからなくなってしまっていた。
そして、1年半後の1998年3月、立命シミュ研は文系の新規メンバーを全く得られないまま、衣笠キャンパスでの活動(とすら言えないような一人定例会)を終えた。
BKCの理系の方ではその後も活動は続いていたようで、KDDIのDIONで理系のメンバーが作った公式ホームページも一時期あったものの、結局はBKCでもシミュ研の消息は途絶えてしまった。
立命シミュ研がBKCでも活動を終えてしまったのは具体的に何年のことだったのかは、正確にはわからないが、現在、立命館大学の公式サイト内の団体紹介のページにシミュ研の名は無い。
早稲田大学のシミュ研は2023年からOB会によるゲーム会が開催されるようになった。
創設まもない1980年代のメンバーやシミュレーション・ウォーゲームがサークルの主たる活動だった時代のメンバーが、最近は定期的に集まって、シミュレーション・ウォーゲームをプレイしています。
久しぶりにシミュレーション・ウォーゲームをプレイしてみたいというサークルOBは、ご連絡ください。
— 早稲田大学シミュレーションゲーム研究会 OB会 (@WASEDASimOB) August 20, 2023
しかし、立命シミュ研ではOB会設立の動きは無いし、もしも今後設立されるようなことがあっても、合わせる顔なんて無い。
人は10代の頃に手に入らなかったものに一生執着する、というけれど、ウォーゲームに関する経験は、10代どころか20代でも十分に手に入らなかった。
小中学生時代はまだまだ行動範囲が狭くて情報に辿り着けず、ようやく辿り着いた高校・大学時代は、1990年代の業界冬の時代とモロにかぶってしまった。
ずっと孤立した遊兵状態で、ようやく辿り着いた前線は既に末期戦の様相で、ジタバタしても何の成果も挙げられなかった。衣笠キャンパスで最後の一人定例会を終えた時の心象風景は、ただ一面の焼け野原だった。
振り返ってみれば、立命シミュ研での4年間は、単なる無駄だった。ソロプレイすらしないまま無為に時間を潰すだけの一人定例会を繰り返すくらいなら、その時間で語学力をバキバキに磨いたりDTPやCADやMOSの資格でも取っておくべきだった。
それに加えて、小学校でも中学校でも高校でも気の置けない同期やロールモデルになる先輩を得られてなかったから、大学時代がその最後の機会だったのにも関わらず、講義の時間以外はMacを触るかシミュ研で無為に時間を潰してばかりいて、ずっと、ひとりぼっちだった。掛け持ちででも他のサークルに入っておくべきだった。
あれから四半世紀以上経ったけれど、結局、その後の人生でも具体的な成果なんか何も挙げられなかった。
遺伝子レベルの出来損ないでコミュニケーションの障害を抱え、半世紀も生きてきたくせに時間とカネの使い方がド下手糞なままで、語学もITもウォーゲーミングも、ちゃんとしたキャリアなんか全く積み上げてこなかったし、これといった成功体験も積み上げてこなかったし、やることなすこと、全て徒労・無駄骨・一人相撲だった。
本当に、くだらない人生だった。