目次
プロの軍人による兵棋演習とは異なる「民間人のホビーとしての卓上ウォーゲーム」は、「19世紀にヨーロッパで誕生したミニチュアウォーゲーム」と「1950年代にアメリカで誕生したボードウォーゲーム」の二種類に大別される。
どちらも1960年代まではもっぱら欧米だけでプレイされていたが、1970年代にイギリスの模型メーカー、エアフィックスが模型雑誌「Airfix Magazine」でミニチュアウォーゲーム関連の記事を掲載したことをきっかけに、欧米以外にも広まっていった。
日本国内に限定しても、その歴史は既に半世紀を超えているが、その歩みは決して平坦なものではなかった。その長く曲がりくねった道を10年単位でまとめてみた。
1972年春、模型雑誌「月刊ホビージャパン」1972年4月号に、模型を作った後の楽しみ方としてミニチュアウォーゲームを紹介する記事「ミニチュア模型によるウォー・ゲーム」が掲載された。
同時期の香港やシンガポールでは英語が公用語だったので「Airfix Magazine」がそのまま読まれていたのに対し、日本では言語の壁があったものの、この記事を執筆した井出隆弥は当時、銀座の洋書店「イエナ」に勤務していたとのことで、「Airfix Magazine」を読んだ上でこの記事を執筆していたと考えられる。
この記事は読者の大反響を呼び起こし、同年7月、ホビージャパンの本社所在地である東京・代々木で日本初のミニチュアウォーゲームの公開戦が実施されるに至った。
以後、「月刊ホビージャパン」に掲載されたルールを元に、全国各地でミニチュアウォーゲームの対戦が繰り広げられるようになった。
同じ頃、キデイランド(東京・表参道の本店は場所柄、在日外国人の顧客が多かった)や、元々海外と取引のあった模型店などがボードウォーゲームの輸入販売を始めていた。
そして1975年、ホビージャパンもアメリカからアバロンヒル製のボードウォーゲームを輸入して和訳ルール付きで販売することを決定した。
アバロンヒル製のボードウォーゲームの輸入販売に際して、「月刊ホビージャパン」にはボードウォーゲームの紹介記事も複数回掲載された。
こうした記事からは、当時のホビージャパンがミニチュアウォーゲームを「ミクロな戦術を扱う局地戦のゲーム」、ボードウォーゲームを「マクロな戦略を扱う総力戦のゲーム」と認識していたことがうかがえる。実際には、そうした棲み分けは1960年代までのことで、まさにこの1970年代にミニチュアウォーゲームからの移植のような形でボードウォーゲームでもミクロな戦術を扱う局地戦のゲームが次々に発売されていたのだけれど。
そして1976年以降、「月刊ホビージャパン」でのウォーゲーム関連記事はボードウォーゲーム関連の記事ばかりになり、ミニチュアウォーゲーム関連の記事はほとんど掲載されなくなってしまった。
日本以外の卓上ウォーゲームがプレイされている国では、おおむねミニチュアウォーゲームもボードウォーゲームも並行してプレイされているのだが、日本ではホビージャパンが1975年にミニチュアウォーゲーム推しからボードウォーゲーム推しへと方針転換した影響で、以後約10年間、ウォーゲームと言えばボードウォーゲームほぼ一辺倒になってしまった。
具体的な記事の内容を紹介すると、1977年4月号から8月号まで連載された「アバロンヒル・バリエーション」では、「Tactics II」「Wooden Ships & Iron Men」「PanzerBlitz」「Panzer Leader」などのゲームを題材に、元々のゲームのルールに手を加えた様々な変則ゲームプレイが紹介されていた。
続けて1977年9月号から1978年7月号まで連載された「アバロンヒルゲームを楽しもう」では、遠隔地とのメール対戦(もちろん、電子メールではなく紙の手紙を使う)やソロプレイの方法なども紹介されていた。
そして1978年8月号から1981年5月号まで連載された「ウォーゲームの世界」では、ボードウォーゲームの入門的な記事が度々掲載されていた。
こうした記事はもっぱら、東京・久が原のウォーゲームサークル「カデークラブ」の会員によって執筆されていた。
1980年、ホビージャパンは従来のアバロンヒルに加えて、新たにSPIのゲームも輸入販売することを決定した。
1970年代のアメリカではアバロンヒルとSPIがボードウォーゲーム出版の二大巨頭だったが、両社の姿勢は何もかもが対照的だった。アバロンヒルがゲーム開発にじっくり時間をかけて新作の出版点数も絞り込み、製品も箱入りで分厚いマップの頑丈なコンポーネントだったのに対し、SPIは多い時には年間30作以上も矢継ぎ早に新作を発表していて、製品も多くが薄いプラスチック製のトレイに厚紙の駒シートとルールブックと折り畳まれたソフトマップが入った簡易パッケージだった。
SPIのそうしたフラットトレイの製品は輸送中の破損リスクが高かったので、それまでは一部の小売店だけが輸入販売していたのだが、ホビージャパンはボックスゲームに限定してSPIのゲームも取り扱うことにした。
SPI製品の取り扱いに際して、「月刊ホビージャパン」では1980年8月号から10月号まで、3号連続してSPIの紹介記事が掲載された。加えて、アバロンヒル製品の広告がモノクロばかりだったのに対し、SPI製品の広告は裏表紙にフルカラーで掲載された。当時のホビージャパンの熱の入れようがうかがえる。
一方、こうした海外から輸入されたボードウォーゲームは、英文ルールしかなかったり、和訳があっても質が低かったりして、値段も高めだった。加えて1970年代末に為替が円高から円安に転じていて、輸入ボードウォーゲームも値上がりしていた。こうしたことから、国産のボードウォーゲームを求める声が日に日に高まっていた。
そして1981年、バンダイ・ツクダホビー・エポック社から、相次いで国産のボードウォーゲームが発売された。
バンダイ最初のウォーゲーム「連合艦隊」(と、同じく「バンダイifシリーズ」に属するゲーム)の雑誌広告
ツクダホビー最初のウォーゲーム「ジャブロー戦役」の雑誌広告
エポック社の「ワールド・ウォーゲーム・シリーズ」の雑誌広告
しかし、こうした国産ゲームは必ずしも手放しで歓迎されたわけではなかった。1970年代の日本において、ボードウォーゲームは「アメリカの最先端のカルチャー」という、一種の中二病アイテム的な受容のされ方をしていた側面があったことは否定できない。実際、マガジンハウス(当時の社名は平凡出版)のファッション雑誌「POPEYE」も「アメリカの最先端のカルチャー」としてボードウォーゲームを時々記事で取り扱うことがあった。
そのため、国産ウォーゲーム誕生以前からアバロンヒルやSPIのゲームをガッツリとプレイしていた者の中には、中二病をこじらせて国産ウォーゲームを低く見る者もいた。
バンダイのゲームは戦闘解決でサイコロではなくカードを使ったり、厚紙の駒をプラスチックのスタンドで垂直に立てたり、そうした駒を動かす専用の棒(参謀ならぬ「参棒」と呼ばれていた)が付いていたりしていたが、そうしたギミックやガジェットゆえに子供だましのおもちゃとみなされることが少なくなかった。皮肉にも、バンダイのゲームの箱には(従来の子供向けゲームと一線を画するという意図を込めてか)「GAME for ADULT」と書かれていたのだけれど。
ツクダホビーのゲームはメインデザイナーの岡田厚利が元々ミニチュアウォーゲーマーだったため、駒ひとつが1輌/1隻/1機を表す戦術レベルのゲームが多かったが、精密さ重視でゲームバランスやプレイアビリティーが二の次になってしまいがちだった。また、ツクダホビーではガンダム・ザブングル・ダンバインなどアニメの版権もののタイトルも多かったが、最初のガンプラブームの時に(実在する物の模型ばかり作っていた)スケールモデラーの中でガンプラを低く見る者がいたのと同様に、ヒストリカルウォーゲーマーの中にはツクダホビーのアニメゲームを低く見る者もいた。
エポック社のゲームは鈴木銀一郎と黒田幸弘が共同で設立した「レック・カンパニー」が開発を担当していた。二人ともゲームバランス調整の開発テストを重要視していて、実際にレック・カンパニーでは何十回もプレイテストが繰り返されていたので、ゲームのプレイアビリティーはバンダイやツクダホビーよりも高かった。しかし、ゲームの見た目、コンポーネントのグラフィックデザインはバンダイやツクダホビーよりも劣っていた。バンダイの最初の雑誌広告がフルカラーの見開き2ページ、ツクダホビーの最初の雑誌広告がフルカラーの1ページだったのに対し、エポック社の最初の雑誌広告がモノクロの1ページだったことからも、そうした見た目のイメージや第一印象を軽視した姿勢がうかがえる。
とはいえ、こうした国産ボードウォーゲームの相次ぐ発売によって、日本のボードウォーゲーム市場は急激に拡大し、それまで輸入ボードウォーゲームを取り扱っていなかった百貨店や町のおもちゃ屋でも国産ボードウォーゲームが販売されるようになった。東京・池袋の西武百貨店に至っては、店内の池袋コミュニティ・カレッジでレック・カンパニーの主催によるゲーム会が開かれるようにまでなった。
こうした国内市場の急激な拡大を受けて、ホビージャパンは1981年末に「月刊ホビージャパン」の別冊という扱いで隔月刊のウォーゲーム専門誌「タクテクス」を創刊した。
こうして、日本では「民間人のホビーとしての卓上ウォーゲーム」が上陸してから10年で、国産ゲームと専門のメディアが誕生した。
国産ゲームの発売によって遂に本格化した日本の卓上ウォーゲームのブームは、しかし翌1982年にいきなり出鼻をくじかれることになった。アメリカでSPIが倒産してしまい、新規の輸入が滞るようになってしまった。
アメリカで1970年代の10年間、良くも悪くも保守的なアバロンヒルとは対照的に、新しいゲームシステムを次々に生み出し、ルールライティングにApple IIを導入するなど先進的な取り組みでウォーゲームの隆盛を担っていたSPIは、1980年代の幕開けと共に退場してしまい、しかも、そのゲームの版権は世界最初のロールプレイングゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズ」の出版元であるTSRに引き取られてしまった。ボードウォーゲームの発祥の地であり最大のマーケットであるアメリカにおけるウォーゲームの衰退と新興勢力であるRPGの擡頭を象徴する出来事だった。
続けて1983年、任天堂がファミコンを発売した。遊びの世界が激変する時代の幕開けだった。
「スーパーマリオブラザーズ」が発売された1985年から「ドラゴンクエスト」が発売された1986年にかけて、ファミコン本体は爆発的に売れ、この頃以降に中学校へ進学した者、すなわち1973年以降に生れた者でボードウォーゲームに手を出す者は激減してしまっていた。
アメリカでは1970年代の10年間、ボードウォーゲームの隆盛が続いていたが、日本でのブームは遅すぎて短すぎた。そのため、日本の卓上ウォーゲーマーは国産ゲームが初めて発売された1981年に中学1〜2年生だった1967〜68年生れが突出して多いという、いびつな年齢分布になってしまった。その弊害は1990年代に表面化するのだが、ひとまずは時計の針を1982年に戻すことにする。
1982年夏、それまで海外ウォーゲームの輸入販売に徹していたホビージャパンも国産ゲームの開発に参入し、「戦車戦」と「大日本帝国海軍」を発売した。
同じく1982年夏、ホビージャパンは新たにGDWのゲームの輸入販売も開始した。
加えて、1982年の夏は学校の夏休みに合わせて、ホビージャパン・ツクダホビー・エポック社の3社共同主催による大型コンベンション「TAC-CON(タクコン)」が全国各地で開催された。
1982年初秋、新たなウォーゲーム専門誌として「シミュレイター」が創刊された。元々は全国規模のウォーゲームサークル「ファースト・ディヴィジョン」の会報として創刊されたが、鈴木銀一郎の息子である鈴木一也が編集人を務めていた上に、編集室の所在地もレック・カンパニーと同じだったので、事実上、レック・カンパニーの機関誌だった。
1982年晩秋、SPIの創業者で100以上のウォーゲームをデザインしたジェームズ・F・ダニガンが1980年にアメリカで出版したウォーゲームの包括的な解説書「The Complete Wargames Handbook」の日本語訳が「ウォーゲーム ハンドブック」という書名でホビージャパンから出版された。
1983年、エポック社から「ワールド・ウォーゲーム・シリーズ」とは別に「エポック・ウォーゲーム・エレクトロニクス(EWE)」が発売された。エポック社の自社開発でレック・カンパニーは関わっていなかった。EWEは電子サイコロが内蔵されたプラスチックとスチールのゲームボードとマグネットの駒で構成されたミニゲームのシリーズで、ルールも「ワールド・ウォーゲーム・シリーズ」よりはシンプルだった。
1983年春、ツクダホビーが自社ゲームのサポート誌「オペレーション」を創刊した。これにより、日本の卓上ウォーゲーム専門誌は3誌体制になった。
1983年秋、アド・テクノスが新たに国産ウォーゲームの出版に参入した。アド・テクノスのスタッフは元々、バンダイの広告デザインチームに所属していて、バンダイの広告に加えてウォーゲームもデザインしていたのだが、独立して自社によるゲーム出版に乗り出した。最初の6作品は冊子形態で、第7作の「ナポレオン モスクワへ」からはボックスゲームの形態で出版するようになった。
アド・テクノスの自社製品第1号「アルデンヌの霧」のマップと駒シート
1984年春、ホビージャパンがアバロンヒルとの間に、同社およびビクトリーゲームズ(元SPIのスタッフで構成された、アバロンヒルの子会社)のゲームの完全日本語版をライセンス出版する契約を交わした。
同じく1984年、鈴木銀一郎が東京・神保町に編集プロダクション「翔企画」を設立し、翌1985年夏に「シミュレイター」を翔企画の編集・発行でリニューアルした。
1985年晩秋、ホビージャパンは隔月刊だった「タクテクス」を月刊誌にリニューアルした。カラーページが増えて判型も平綴じB5判から中綴じA4判に拡大し、その上、「折り込みゲーム」が毎号付くようになった。折り込みゲームとは中綴じのちょうど中間部分にルールとフルカラーのマップが折り込まれていて、中綴じのホチキスの針を一旦広げることで本誌から取り外せるようになっていた。厚紙の駒シートは大体3号分くらいがセットで別売りになっていたが、本誌に駒のリストも付いていたので自作も可能だった。
「月刊タクテクス」第34号に折り込まれていた「Napoleon at War: Marengo」の日本語ルールとマップ
「月刊タクテクス」第34号の別売り駒シート通販申し込み用紙と「Napoleon at War: Marengo」の駒のリスト
1980年代半ば、日本の卓上ウォーゲーム界隈は一見すると順調に発展しているような印象だった。全国各地の大学に「シミュレーションゲーム研究会」が設立されたのもこの頃だった、しかし、それは国産ゲームが初めて発売された1981年に中学1〜2年生だった1967〜68年生れが大学に進学しただけであって、実際にはこの頃から小中学生の間ではファミコンが圧倒的人気となっていて、新人の取り込みに失敗していた。加えて、ゲームの粗製乱造が起きてしまっていた。
1984年に鈴木銀一郎は「シミュレイター」での連載「ヒゲの大佐のゲーム・デザイン講座」の中で、アメリカの出版業界が「ゴッドファーザー」の大ヒット後、マフィア小説の粗製乱造に陥ってしまい、その結果、マフィア小説というジャンル自体が衰退してしまった事例を紹介し、日本のウォーゲーム業界でも同じことが起きるかもしれないと警告を発していた。その警告通りのことが起きてしまった。
粗製乱造の主犯は、ツクダホビーとアド・テクノスだった。ツクダホビーの場合、版権もののアニメゲームがテレビ放送や映画の上映に合わせてリリースしなければならない分、ゲーム開発の時間的制約が厳しかったので、ただでさえディテール重視でプレイアビリティーが犠牲になりがちだったツクダホビーのゲームの品質は更に下がってしまった。
アド・テクノスの場合、開発タイトルの大規模化によってマネジメントが崩壊していた。ナチスドイツと大日本帝国による第三次世界大戦をテーマにした仮想戦「レッドサン・ブラッククロス」シリーズや、北海道に上陸したソ連軍を自衛隊が迎え討つ仮想戦をテーマにしたSDFシリーズ(「第7機甲師団」「北部方面隊」「第5師団」の三部作で連結も可能)など、駒の個数もマップの枚数も多いビッグゲームの出版が増えていたアド・テクノスは、ゲーム開発の進捗管理がままならなくなっていた。
1986年、バンダイがウォーゲームの出版から撤退した。1987年秋、ホビージャパンが「月刊タクテクス」の偶数号をTRPG特集号、奇数号をウォーゲーム特集号として発行するようになった。事実上、ウォーゲーム雑誌としての「タクテクス」は隔月刊に戻ってしまった。
1987年末、ツクダホビーの「オペレーション」が休刊した。そして1988年、アド・テクノスが倒産した。
国内市場の縮小を憂えた鈴木銀一郎は新しいウォーゲーマーを獲得するべく、低価格のウォーゲームをシリーズ化して翔企画から出版することを決断した。「SSシリーズ」、すなわちスモールサイズ・シミュレーション・シリーズと銘打たれ、1988年秋に出版が始まった。しかしファミコンの牙城は高く、しかも翌1989年にはSSシリーズよりももっと安い文庫本TRPG「ソード・ワールド」が発売され、価格面でも全く太刀打ちできなかった。
1990年、ホビージャパンが月刊誌「RPGマガジン」を創刊し、「タクテクス」を「RPGマガジン」の季刊の増刊号としてリニューアルした。判型は平綴じB5判に戻り、表紙以外のページは全てモノクロになり、折り込みゲームも無くなってしまった。
1991年、翔企画の「シミュレイター」が休刊した。SSシリーズとそれ以外も含め、ゲームの新作も出版されなくなった。エポック社もウォーゲームの出版から撤退した。
前述の通り、日本の卓上ウォーゲーマーは国産ゲームが初めて発売された1981年に中学1〜2年生だった1967〜68年生れが突出して多い。その1967〜68年生れが1990年代初頭に大学を卒業して就職したことにより、国内市場は一気に冷え込んでしまった。
1992年、ホビージャパンの「季刊タクテクス」も休刊した。最盛期には3つもあった専門誌は、全て無くなってしまった。
ホビージャパンはTRPGに鞍替えして、ツクダホビーも1992年にゲームビジネスから撤退した。国産の商業レベルでのボードウォーゲームは、全く出版されなくなってしまった。ゲーム開発者から作家に転身する者(福田誠・佐藤大輔など)や、元々の本業である研究者の仕事に専念する者(高梨俊一・大平英樹など)も少なくなかった。
アマチュアのウォーゲームサークルによる同人誌や同人ゲームは1970年代からあったものの、定期的に発行されて全国で広く読まれている同人誌は無かった。そのため、商業誌が担っていた「全国各地の卓上ウォーゲーマーが交流できるメディア」を再構築することが急務となった。
1990年代前半はまだインターネットの商業利用解禁前夜で、カデークラブの会長だった越田一郎はパソコン通信サービス大手のニフティサーブのゲームフォーラム(FGAME)内のウォーゲーム専門会議室で積極的に活動していた。ただし、ニフティサーブは有料かつクレジットカード決済しかできなかったので、誰でも参加できるわけではなかった。
そこで、月刊時代の「タクテクス」が開催したオリジナルゲームコンテストで準優勝を獲得していた中村徹也が、全国各地の卓上ウォーゲーマーを繋ぐべく、モノクロコピーの同人誌「ゲームジャーナル」を創刊した。
1994年晩秋、同じく月刊時代の「タクテクス」が開催したオリジナルゲームコンテストで優勝を獲得していた山崎雅弘が、ウォーゲーム付き同人誌「シックス・アングルズ」を創刊した。
そして1994年末、大阪の国際通信社から「コマンドマガジン日本版」の創刊号が出版された。編集長はかつて翔企画で「シミュレイター」の編集を手掛け、SSシリーズのゲームも複数デザインしていた中黒靖だった。
「コマンドマガジン日本版」はアメリカのウォーゲーム専門誌「Command」の日本版という扱いで、創刊号では付録ゲームのマップと厚紙の駒シートはアメリカ版「Command」のものを輸入して、日本語ルールが巻末に付いた本誌のみ日本で編集・印刷していた。
1995年春、モノクロコピーで郵送が基本だった「ゲームジャーナル」は、表紙のみフルカラーのオフセット印刷に移行して、裏表紙がPnPのミニゲームになり、一部小売店での販売やコミックマーケットでの頒布も始まった。
1990年代後半に入ると、こうしたプロ・アマを問わないパブリッシャーや、サークル、そしてウォーゲーマー個人のホームページ開設が増えてきて、インターネット上での日本人卓上ウォーゲーマーのネットワークが徐々に構築されてきた。電子メールを使ったテキストベースの通信対戦(いわゆるPBeM)も実施されるようになった。
1996年、それまで海外ゲームだけを付録にしていた「コマンドマガジン日本版」が、第10号でエポック社の「日本機動部隊」を付録ゲームとして再版した。以後、度々国産ゲームが付録になった。
1998年、大阪のウォーゲーム/TRPGサークル「ミドルアース」の会長を務める古角博昭が海外ボードウォーゲームの輸入販売を開始した。2000年にはサンセットゲームズを設立してエポック社の「史上最大の作戦」を再版し、以後、エポック社・ホビージャパン・SPIの製品を再版するようになった。
同じく2000年、卓上ウォーゲーマー向けのネット掲示板を複数まとめた「シミュレーションゲーム共用掲示板」が誕生した。
2001年、ホビージャパンが直営店であるポストホビーで「戦車戦」の復刻版を販売した。が、観測気球的なものだったらしく、他のゲームの復刻版が販売されることは無かった。
同じく2001年、中村徹也は郷里の京都で(株)シミュレーションジャーナルを設立して、「ゲームジャーナル」を商業誌にリニューアルした。
国内市場の壊滅から約10年を経て、東京首都圏ではなく関西ではあるものの、再び商業パブリッシャーが複数並び立つようになった。
2000年代に入ると、「ネット経由の出戻り」が起きるようになった。1990年代初頭に就職した元ウォーゲーマーが金銭的にも時間的にも余裕が生じてきて、昔プレイしていたゲームのタイトルを何気無くGoogleで検索してみた結果、今でもプレイされていたり再版されていたりしていることを知って出戻ってくる、というパターンだった。
2000年の時点で、日本国内でオープンな定例会を開催しているウォーゲームサークルは、人口100万人以上の都市(札幌・仙台・東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・北九州・福岡)にしか残っていなかったが、まさにこの2000年頃を境に、人口100万人未満の地方でもネット経由の出戻りをきっかけに新しくサークルが誕生するようになった。
ネット経由の通信対戦でも新しい潮流が起きていた。おしなべてマップが大きく駒の数も多いウォーゲームは、テキストの遣り取りだけでは対戦しにくい。そこで、ブロードバンドの普及と共に、画面上にマップや駒の画像を表示してマウスで操作する通信対戦ツールが開発されるようになった。2000年前後から「Aide de Camp」「CyberBoard」「VASSAL」といったツールが発表されたが、無料で使えてマルチプラットフォーム(Win/Mac/Linux)で日本語メニューもサポートされているVASSALが日本では普及した。
2002年、国際通信社は食玩「ワールドタンクミュージアム」の戦車模型をそのまま駒として使える戦車戦ゲーム「ワールドタンクバトルズ」を発売した。「コマンドマガジン日本版」で長年ライターを務める堀場亙によるデザインで、模型が無くてもプレイできるように厚紙の駒も付いていて、ミニチュアウォーゲームとボードウォーゲームの中間的なゲームだった。
同じく2002年、「ゲームジャーナル」は旧アド・テクノス製品の版権を取得して、付録ゲームとして度々再版するようになった。
ゲーム付きの商業誌が複数発行されるようになったことで、1990年代の業界冬の時代と比べてゲームの供給体制は改善されたが、一方で価格の問題が浮上していた。
かつての「タクテクス」や「シミュレイター」が800円だったのに対し、「コマンドマガジン日本版」は(付録ゲームが厚紙の駒シートまでフルセットで付いているとはいえ)3600円という4倍以上の価格で、「ゲームジャーナル」も同人誌時代は2000円を超えていなかったものの、商業誌になってからは同じく3600円になってしまい、比較的手に取りやすい低価格帯の商品が無くなってしまっていた。このままでは、出戻りばかりで新規参入が望めない。
2003年、廉価版の不在を解消すべく、国際通信社が「ダブル・チャージ」を創刊した。が、わずか4号で休刊してしまった。
2004年、サンセットゲームズが不定期発行の公式サポート誌「プラン・サンセット」を創刊した。
2004年末、「コマンドマガジン日本版」が創刊10周年を迎え、「タクテクス」の発行期間にほぼ並んだ。
2005年、アメリカのMulti-Man Publishingが英語圏以外でデザインされたボードウォーゲームの英語版をライセンス出版する「International Games Series」の企画を開始したことにより、主に「ゲームジャーナル」の付録ゲームが海外でも広くプレイされるようになった。
英語圏の大手ゲームレビューサイト「The Dice Tower」の公式YouTubeチャンネルで紹介される「Storm Over Stalingrad」(「ゲームジャーナル」第19号付録「スターリングラード強襲」の英語版)
2006年、国際通信社は「コマンドマガジン日本版」の定期購読者や自社運営のゲーム通販サイト「a-game」の利用者などに無料のハガキゲームを不定期に配布するようになり、PnP用のデータも公式サイトで公開するようになった。
2000年代後半に入ると、VASSALユーザーの増加に伴い、「コマンドマガジン日本版」や「ゲームジャーナル」も公式サイトで付録ゲームのVASSAL用モジュールを公開するようになった。また、ヤフオクで中古ウォーゲームが取り引きされることも増えていった。そして、ブログやmixiの普及に伴い、卓上ウォーゲーマーでもブログやmixiを使う者が増えてきて、公式ブログを持つサークルも増えていった。その一方、プロバイダーなどによる個人向け無料ホームページサービスが徐々に終了してしまい、卓上ウォーゲーマー個人のホームページも相当数がブログに移行することなく消滅してしまった。
2008年、日本の卓上ウォーゲーマー向けに特化した、mixi風のSNS「MustAttack」が誕生した。
2009年春、国際通信社は日本史に特化したゲーム付き雑誌「季刊ウォーゲーム日本史」を創刊した。同年秋には「日本におけるウォーゲーム・ブームを支えた優れた国産ゲームをいつでも買えるように」というコンセプトで「ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス」というシリーズを創設し、第1作として「日本機動部隊」を再版した。翌2010年からは年1回、ウォーゲームの初心者をターゲットにしたミニゲーム付きの「ウォーゲーム・ハンドブック」も発行するようになった。「季刊ウォーゲーム日本史」も「ウォーゲーム・ハンドブック」も、価格は「コマンドマガジン日本版」よりも低く設定された。
2010年、国際通信社のa-gameが台湾の新興パブリッシャー、福爾摩莎戰棋社(Formosa Force Games)が創刊したウォーゲーム付き雑誌「戰棋」の取り扱いを始めた。また、2010年春にa-gameはゲームマーケットに初出店した。21世紀に入って以降、商業ボードウォーゲームのパブリッシャーが地元の関西でイベントを開催することは度々あったが、東京首都圏のイベントに参加するのは、これが初めてだった。
2011年、メガハウス(バンダイの子会社で、2003年に倒産したツクダホビーの版権を継承していた)が「ジャブロー戦役」の復刻版を出版した。が、あくまでもツクダホビー版の出版30周年を記念したもので、他のゲームの復刻版が出版されることは無かった。
2011年末、「ゲームジャーナル」も商業誌になって10周年を迎えた。
関西を拠点とする商業パブリッシャーにとって、2000年代は出戻りによるマーケットの(再)拡大を追い風に、出戻り以外の新人ウォーゲーマーの獲得や海外進出や東京首都圏の販路開拓を模索する10年だった。
2010年代に入るとゲームマーケットの開催規模拡大と共に、ウォーゲーム系の出展者と参加者も(ゲムマ全体の中では少数派ではあるものの)増えていった。スマホとTwitterを使う卓上ウォーゲーマーも増えてゆき、高精細の写真がネットに上がりやすくなった。
2012年、中黒靖は個人ブランド「ボンサイ・ゲームズ」を設立し、卓上ウォーゲームのレビュー誌やミニゲームといった、採算面などで国際通信社からは出しにくい製品の出版を始めた。
同じく2012年、台湾の福爾摩莎戰棋社から「英烈千秋」が出版された。ゲームデザイナーは香港人でグラフィックデザイナーは日本人、そしてパブリッシャーは台湾という、史上初のアジア合作によるボードウォーゲームだった。
2013年、「ゲームジャーナル」は旧ツクダホビー製品の版権を取得して、付録ゲームとして度々再版するようになった。
同じく2013年、フリージアエンタープライズがイギリスのミニチュアウォーゲームメーカー、Warlord Gamesのヒストリカルミニチュアウォーゲーム「Bolt Action」の輸入販売を始めた。ゲームズワークショップのファンタジーミニチュアウォーゲーム「ウォーハンマー」は2000年代初頭から日本でも販売されていたが、海外のヒストリカルミニチュアウォーゲームのシリーズが公式な日本語ルール付きで販売されるのは、これが初めてだった。
2014年、国際通信社は「ワールドタンクバトルズ」のゲームシステムを使ったガルパン戦車道ボードゲーム「ぱんつぁー・ふぉー!」を発売した。「ワールドタンクバトルズ」と同じく堀場亙によるデザインで、従来のウォーゲーマー以外にも広くプレイされるヒット作となり、「メガミマガジン」の付録としてエキスパンションも発表された。
同じく2014年、ホビージャパンが「Blue Max: World War I Air Combat」の日本語版を発売した。海外のボードウォーゲームの日本語版をホビージャパンが発売するのは20年以上ぶりだった。
2014年末、「コマンドマガジン日本版」が創刊20周年を迎え、翌2015年には第123号から付録ゲーム抜きで廉価なKindle版も発行するようになった。
2010年代前半は福爾摩莎戰棋社が新作を相次いで出版したことにより、台湾で卓上ウォーゲームが盛り上がり、「コマンドマガジン日本版」や「ゲームジャーナル」の付録ゲームも台湾で頻繁にプレイされるようになった。2010年代後半は中華人民共和国で新興パブリッシャーが次々に誕生し、パブリッシャーの数でも年間出版点数でも日本を追い越し、アメリカに次ぐ世界第2位のマーケットに急成長した。
その過程で上海の戦鼓遊戯や黒喵製造総局、北京の戦旗工作室、天津の極光遊戯工作室からボンサイ・ゲームズのミニゲームや「コマンドマガジン日本版」「ゲームジャーナル」「シックス・アングルズ」の付録ゲーム、そしてジャパン・ウォーゲーム・クラシックスに収録されている古典などが幾つもライセンス出版されるようになり、レビューやリプレイが頻繁にビリビリ動画に上げられ、遂には人民解放軍でもプレイされるようになった。更に、一部タイトルは元の日本語版よりもコンポーネントが豪華なことから、日本にも逆輸入販売されるようになった。
人民解放軍のミサイル開発・運用に関する教育研究機関である火箭軍工程大学のウォーゲーム大会で(駒とマップを拡大して)プレイされる「ドイツ戦車軍団」
2015年、中黒靖はオンラインショップ「小さなウォーゲーム屋」を開設し、アメリカのみならずヨーロッパやアジアの新興パブリッシャーが出版した卓上ウォーゲームの輸入販売を始めた。その一方、国際通信社が「季刊ウォーゲーム日本史」を不定期発行に発行形態を変えた。
2015年夏、イカロス出版の美少女ミリタリー雑誌「MC☆あくしず」第37号で堀場亙のデザインによる「クルスク大戦車戦」が特別付録になり、これ以降の号でも度々ウォーゲームが付くようになった。
2015年末、利用者の多くがMustAttackに流れてしまっていた「シミュレーションゲーム共用掲示板」の運用が終了した。
2017年秋、ボンサイ・ゲームズからフリーペーパー「BANZAIまがじん」の発行が始まった。
2018年夏、学研の戦史雑誌「歴史群像」が第150号を記念して、同誌で長年ライターを務める山崎雅弘のデザインによる「モスクワ攻防戦」と「バルジの戦い」が特別付録になり、これ以降の号でも度々ウォーゲームが付くようになった。
2019年、ボンサイ・ゲームズが「BANZAIまがじん」の有料版「BANZAIまがじんEX」の発行を始めた。その一方、国際通信社が「ウォーゲーム・ハンドブック」の年1回の発行を終了した。
2020年、ホビージャパンが「Quartermaster General」の日本語版を発売した。
2021年、「BANZAIまがじんEX」が第11号をもって「EX」を外した「BANZAIマガジン」に改名した。
そして2021年秋、ゲームマーケット会場内のホビージャパンのブースで、「タクテクス」の30年ぶりのリブートを予告する広告が展示された。
しかし、これに対する古参ウォーゲーマーの反応は大きく二分された。TRPGが流行れば「RPGマガジン」を創刊して「タクテクス」を休刊させ、TCGが流行れば「ゲームぎゃざ」を創刊して「RPGマガジン」を休刊させ、ユーロゲームが流行れば「ゲームジャパン」を創刊して「ゲームぎゃざ」を休刊させ、その時々の流行りに乗り換えてきたホビージャパンのこの発表を、何を今更と冷やかに受け止める者は少なくなかった。とはいえ、昔も今もホビージャパンが日本のホビー業界における最大手企業であることも事実で、そのウォーゲーム専門誌のブランド復活を歓迎する者も少なくなかった。
日本に「民間人のホビーとしての卓上ウォーゲーム」が上陸して、半世紀が経った。第1世代は既に50〜60代となり、親子二代でボードウォーゲーマーという事例もネットでは散見される一方、中古市場に遺品整理と思しき大量出品がなされることもある。
日本語版ゲームの年間出版点数は1980年代半ばと比べても遜色無いものの、個々のゲームの発行部数は遥かに少なく、すぐに品切れになりやすいので、店頭では目立ちにくい。そもそもオフラインで取り扱っている小売店そのものが少ない。しかも商業パブリッシャーの所在地は関西ばかりで東京首都圏での営業活動がやりにくい。
加えて、ボードウォーゲームへの偏重(=ミニチュアウォーゲームへの冷遇)や年齢層の偏りという問題も、依然解消されているとは言い難い。
このグラフは2019年10月末時点でMustAttackに加入しているメンバーを誕生年別に検索した結果をグラフ化したもので、(誕生年を公開していないメンバーや外国人のメンバーや、パスワードを忘れてアカウントを重複登録しているメンバーも一部いるものの)MustAttackに加入していない者も含めた現在の日本の卓上ウォーゲーマーの年齢分布と相似形になっていると考えられる。依然として1967〜68年生れが突出して多く、1973年以降に生れた者をちゃんと取り込めていない、と言えるだろう。
日本の古参ウォーゲーマーはしばしば、自らを「絶滅危惧種」と呼んでいるが、ただ単に卓上ウォーゲームの魅力を(特に若い世代に向けて)発信するのが下手糞なだけに過ぎない。現に、中華人民共和国の卓上ウォーゲーマーは30歳以下が圧倒的に多く、ビリビリ動画にはレビューやリプレイが毎日何本も上げられている。日本のマーケットだって、まだまだ開拓の余地はある筈だ。
依然として若年層の取り込みが上手くできているとは言い難い以上、次の10年、20年がどうなるかは、第1世代の「終活」の仕方に大きく左右されるだろう。
1974年生れだから、本来ならここまで深く卓上ウォーゲームと関わることにはならなかった筈だった。ませていたから中学2年ではなく小学2年だった1982年にエポック社版の「ドイツ戦車軍団」を偶然手に入れてしまったが、小中学生だった1980年代は雑誌ともサークルとも販売店とも接触できず、高校に進学した1990年になってようやく、既に季刊になってしまっていた「タクテクス」を書店で見つけ、巻末のサークル案内に載っていた阪大シミュ研(2019年にボードゲーム研究会に改名)へ行くようになったものの、程無く業界冬の時代が訪れてしまった。
一浪を経て立命館大学の文学部へ入学すると速攻でシミュ研に入ったものの、立命シミュ研は理系のメンバーが圧倒的多数で、しかも入学した1994年に理工学部が滋賀へ移転してしまったから、京都ではほとんど一人で広報活動だけしかできず、しかも何の成果も挙げられなかった。結局、ほぼ毎月どこかで対人戦をしていたのは、20代終盤の2003年にミドルアースへ出入りするようになってから2011年までの10年足らずに過ぎない。
だから、この半世紀の内、最初の20年間の出来事はほとんどリアルタイムでは体験できていないし、10代の頃からガッツリとプレイしていた上の世代と比べて経験値が圧倒的に足りないという負い目・引け目・劣等感は、今でも完全には払拭されていない。
一応、歴史学の学士号は持っているし(東洋史学専攻だったから中村徹也の実父でもある中村喬教授のゼミに入っていたこともある)、大学の長期休暇の期間は経験値の差を少しでも埋めようと、鈍行列車や夜行バスで9時間かけて東京まで来て永田町の国立国会図書館で「タクテクス」や「シミュレイター」のバックナンバーを読み漁っていたし、生れ育って30年以上過ごした関西でも2007年から住んでいる東京でも、それなりに業界のキーパーソンとの関わりはある。しかし、本来こういう通史はまだ存命中の第1世代が書くべきものだと今でも思っている。
本稿はそもそも、海外向けに日本語以外で書いたものをベースとしている。2009年から2010年にかけて、アジア各地の卓上ウォーゲーマーと直接会ったことをきっかけに、日本の卓上ウォーゲーム情報を海外へ発信することを考え、2006年から2015年まで運営していた旧サイトで英文コンテンツのひとつとして「A Brief History of the Unplugged Wargaming in Japan」を公開し、更にそれをベースとして台湾の「戰棋」で2012年から2015年まで「日本戰棋史略」を連載したものの、当時は勢い任せで内容にアラが多かったので、全面的にリライトするというのが懸案事項になっていたのだが、上記の理由から日本語版を作るつもりは無かった。
しかし、半世紀の節目を迎えてもなお、誰一人として書きやがらないので、仕方無く書き上げた。もっとゴシップと皮肉てんこもりの内容にもできたが、日本語コンテンツで同種の通史が他に無い状態なので、今回はあえて無難で穏当な内容にまとめた。あの騒動とかあの騒動とかあの騒動とかが書かれてないじゃないか、というツッコミは受け付けない。わざと省いてるっての。
繰り返しになるが、本来こういう通史はまだ存命中の第1世代が書くべきものだと今でも思っている。歴史を題材にしたゲームを嗜んでおきながら、自らの来し方を記録しないってのは、ありえないだろ?
……これ、2032年になったら60年史に増補改訂しなきゃならんのか。めんどくせーなー。