支那の見方・その2

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前回の最後、「支那は、国ではない」の一言で終ったので、えええええ〜っ!?と思った者もいるだろう。国じゃないんだったら一体なんなんだよ!?と、疑問符が飛び回っていてもおかしくはないが、今回はその疑問に答えるため、まず、支那の歴史を一気に遡ってみる。

神話伝説上の三皇五帝の時代や、いまだ実在したか否かがハッキリしないの時代を除くと、歴史学と考古学の双方で実在が確認できる支那の最も古い時代はで、その次が、そして諸国乱立の春秋時代および戦国時代に移り、が他の国を全て滅ぼすことによって諸国乱立の時代が終り、秦の王だった嬴政が史上初めて「皇帝」を名乗り、国によってバラバラだった度量衡や貨幣や書体を統一した……といった話は、中学や高校で世界史を履修していれば知っているだろう。

で、世界史の教科書や歴史書の類では、秦が他の国を全て滅ぼすことによって春秋戦国時代が終ったことを「統一国家の成立」と表現しているのが大半だが、それは、ちょっと違う。いや、かなり違う。

戦国時代の支那は、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の、いわゆる戦国七雄と呼ばれる7つの国々に分裂していたわけだが、当時それら7ヶ国で日々生活していた人々にとって、東の海西の砂漠南の山脈北の高原の向こう側というのは未知の領域であって、それらに囲まれた大平原の7ヶ国が「天下」すなわち「世界の全て」だった。

ゆえに、秦が他の6ヶ国を滅ぼした……というのは、当時の支那人にとっては、「統一国家の成立」というよりは「世界政府の樹立」のように思えるものだった。国によって度量衡や貨幣や書体がバラバラだったのだから、尚更そうだ。これを「統一国家の成立」とみなすのは、当時の支那の向こう側にも様々な国が存在していたということを知っている現代人の思考丸出しの見方に過ぎない。

以後、支那の歴史は、三国時代五胡十六国時代南北朝時代五代十国時代といった、支那が複数の国々に分裂した時代と、といった、(支那人にとっての)世界政府が樹立した時代が交互に訪れた。その過程で、支那人の活動領域が東の海・西の砂漠・南の山脈・北の高原の向こう側にも広がってゆき、逆にインドの仏僧やアラブのイスラム商人やヨーロッパのカトリック宣教師が支那にやってきて、それによって、唯一にして正統なる統治者である筈の皇帝の統治が及ばない所にも様々な国が存在するらしい……ということがわかってきたのだが、それでも依然として「我々は既に国家を超越したのだ」という自意識(あるいは建前)は20世紀まで継続した。

つまり、支那は国ではなく、それ自体がひとつの世界であると見るべきであって、当の支那人自身、大多数がそういう自意識(あるいは建前)でもって、20世紀に入るまで、自分たちが日々生活している支那を「天下」すなわち「世界の全て」と見ていたのだ。このことがわかっていないと、支那を、支那人を、見誤ることになるし、実際に日本人の大半は現在進行形で見誤っている。更に言えば、支那を「中国」と呼ぶことは、そうした見誤りを助長してしまってもいるのだ。

ものすごく重要なことであり、本稿のメインテーマでもあるので、もう一度繰り返す。支那は、国ではなく、それ自体がひとつの世界である、と見るべきなのだ。

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