読み書き指向言語としての日本語

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日本の外国語教育は読み書き偏重で実践的ではなく、もっと会話教育を重視すべき、という物言いは腐る程溢れているが、日常的に日本語以外の言語を読み書きしている立場からすると、この手の物言いには全く首肯できない。読み書きは(チャットとかでない限り)自分のペースで読み書きできるが、会話は基本的に相手と時を同じくするので時間的制約が厳しい。読み書きすら覚束無い奴が会話を特訓したところで、ペラペラ喋られるようになるというよりは、ペラペラな内容しか喋られない。それに、そもそも日本人が母語としている日本語そのものが、実は会話向きではなく、読み書き指向が強い。

日本語は、音の種類が少ない。母音はアイウエオの5つ、基本的な子音はK・G・S・Z・T・D・N・H・B・P・M・Rの12、しかも、基本的に子音には母音が付き、子音が連続したり単語が子音で終ったりしないので、子音と母音の組み合わせの種類も、世界の諸言語の中ではかなり少ない方に属する。英語と比較してみれば一目瞭然だろう。

V音が無いのでB音との聞き分けができにくく、ラ行音はRとLの中間っぽいので、これも聞き分けができにくい。意外に見落されがちなのは「ン」の聞き分けだろう。以下の3つの「ン」は、実はそれぞれ発音が異なる。

サンタ
サンマ
サンカ

「サンタ」の「ン」は舌先を上顎にくっつける「n」、「サンマ」の「ン」は、上下の唇をくっつけて口を閉じる「m」、そして「サンカ」の「ン」は舌根で喉の奥をふさぐ「ng」で、厳密には発音が異なる。日本語以外の言語では、これらを別々の音として扱う言語も少なくない。例えば、朝鮮語では「間」は「간(kan)」、「感」は「감(kam)」、「江」は「강(kang)」で、朝鮮語ネイティブはこれを聞き分けられるのだが、日本人にはこれが全て同じ音に聞えてしまう。

音の種類が少ないと、同音異義語が増える。雨と飴、橋と箸、柿と牡蠣などなど。この程度であればまだ、アクセントで区別をつけられるかもしれないが、近代以降、西洋の文献を翻訳する過程で漢字熟語を量産したことによって、同音異義語がめちゃめちゃ増えてしまった。「以外」と「意外」、「開放」と「解放」、「驚異」と「脅威」の入力ミスは、今では誰でもネット上で毎日のように目にしているだろう。

現在の日本語は、同音異義語がめちゃめちゃ増えてしまったことによって、会話向きではなくなってしまい、読み書き指向が強くなってしまった。それは、「文字の種類の多さ」からもわかる。

ことば
コトバ
言葉

こころ
ココロ

いのち
イノチ

どれも、発音は同じだけれど、ひらがな・カタカナ・漢字の違いによって、日本語ネイティブが読んで受け取る印象は異なってくる。つまり、音の種類の少なさによる表現力の限界を文字の種類の多さによって補っているとも言える。事程左様に、現在の日本語は読み書き指向が強い。

音の種類の少なさに慣れきってしまったまま、音の種類が多い言語の会話に挑戦しようとしても、ネイティブのようには聞き分けができず、話す時には余計な母音を挟み込んだり付け足したりしてしまうのがオチだ(例:「stop」→「sutoppu」)。よっぽど音感が良くない限り、そうなる。

余談だが、「いかにもそれっぽく聞えるデタラメ外国語」を持ち芸のひとつとするタモリは、元々ジャズの造詣が深く、音楽バラエティー番組の司会も長く務めている。つまり、人並み以上に音感がいい。だから、外国語もちゃんと学べば、ネイティブと同様の会話ができると考えられる。逆に言えば、タモさん並みの音感が無いのであれば、ネイティブ並みの会話なんてスッパリ諦めた方がいい。

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