布哇処分

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第二次世界大戦で日本が無条件降伏を受け入れるのに長い時間を要したのは、無条件降伏では国体の護持、すなわち天皇の地位の保全が確約されていなかったから、ということが最大の理由として挙げられるだろう。特に、大日本帝国憲法では天皇が陸海軍の最高司令官「大元帥」を兼任することになっていたので、軍部にとって天皇の地位の保全だけは絶対に譲れない条件だった。

当時の政府と軍の首脳部は、無条件降伏を受け入れると皇室そして日本という国の存続が保証できないと危惧していた……というのは、今となっては単なる杞憂だったと片付けられがちだけれど、そういう危惧を抱くのにはそれなりの背景があった。特に「布哇処分」の影響が大きかったと考えられる。

え?布哇処分って何?そもそも何て読むの?と思う人もいるだろうから、以下、じっくりと解説する。布哇処分とはすなわち、1898年(明治31年)の「ハワイ併合」だ。

沖縄県はかつて琉球王国だったが、明治初期の「琉球処分」すなわち日本による併合によって日本の沖縄県になった。同様に、ハワイもかつてハワイ王国だったが、アメリカ系移民によるクーデターで王制が廃止されてハワイ共和国になり、程無くしてアメリカのハワイ準州になった(準州から州に昇格したのは1959年)。

琉球王国は日本に、ハワイ王国はアメリカに編入されたわけだが、大きな違いがひとつ、あった。日本は琉球王国と同様に君主制なので、琉球王国の王家だった第二尚氏華族(侯爵)待遇となり、現在も存続しているが、アメリカは君主制のイギリスから独立した共和制国家なので君主制には何の思い入れも無く、ハワイ王国のカラカウア王家は布哇処分の翌年に断絶している。

ちなみに、布哇処分から遡ること17年前の1881年(明治14年)に、ハワイ王国の第7代国王カラカウアが来日して、明治天皇との会見で日本とハワイの連邦化を提案している(全くの余談だが、卓上ウォーゲーム「Operation Rainbow」は、ハワイ王国が存続して日本海軍が駐留するようになった真珠湾を米軍が奇襲するという「逆・太平洋戦争」をテーマとしている)。

布哇処分は明治31年、すなわち日清戦争と日露戦争の間の出来事だった。そして、第二次世界大戦で日本が無条件降伏を受け入れた時点での鈴木貫太郎内閣のほとんどの大臣、そして陸軍参謀本部のトップである参謀総長と海軍軍令部のトップである軍令部総長にとっては、10代の時に起きた出来事だった。つまり、彼らは物心ついた直後にリアルタイムでハワイ王国の消滅とカラカウア王家の断絶の報に接していた。

無条件降伏を受け入れてしまえば、半世紀前のハワイ王国のように、日本もまたアメリカに併合され、そのうえ皇統も断絶してしまうかもしれない……という危惧を抱くのも当然だったと言えるだろう。これを単なる杞憂だったと片付ける気にはなれない。君主制国家に無条件降伏を突き付けるというのは悪手であり、却って無駄に戦争を長引かせてしまったと言えるだろう。

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