終戦の詔勅について・その3

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先週の続きで、終戦の詔勅において、ソ連対日参戦が日本に対する決定打だったということを隠蔽して原爆投下が日本に対する決定打だったかのごとく仕立て上げなければならなかった理由は……という話の前に、欧州戦線におけるドイツ軍の降伏前後について触れてみることにする。

1944年(昭和19年)6月のノルマンディー上陸作戦以降、ドイツ軍は西ヨーロッパでアメリカ軍やイギリス軍と、東ヨーロッパでソ連軍と戦っていたが、翌年4月にヒトラーが自殺して5月にベルリンが陥落した後、ヒトラーの遺書の中で後継者(大統領)に指名されていたカール・デーニッツ海軍元帥は、大統領に就任すると西部戦線での部分的降伏と東部戦線での戦争継続を目指した。というのも、ソ連軍の占領地区における、投降したドイツの軍民に対する残虐行為が報告されていたからだった。

西部戦線と比べて、東部戦線すなわち独ソ戦は、互いに相手を戦闘員・非戦闘員を問わず皆殺しにすることを目指す「絶滅戦争」の域に達していた。それゆえ、ベルリン陥落後も東部戦線ではソ連軍との戦闘と、海軍の艦艇による非戦闘員の西方への海上移送が続けられていた。加えて、降伏文書の調印後も、東部戦線のドイツ軍の内、少なからぬ者が目の前のソ連軍に投降せず、わざわざ西へ移動してアメリカ軍やイギリス軍に投降した。要するに、ソ連軍に対して両手を挙げるよりも、アメリカ軍やイギリス軍に対して両手を挙げた方が、後の処遇がマシだろうという判断が働いていた。

終戦の詔勅についても、全く同じように「どっちを向いて両手を挙げるのがマシか」という判断が働いたと言えるだろう。「ソ連対日参戦が決定打でした」などと馬鹿正直に言ってしまうと、戦後の日本と天皇の処置をめぐって、連合国間におけるソ連の発言権が大きくなってしまいかねない。一例を挙げると、連合軍による戦後日本の占領は、当初、アメリカ・イギリス・ソ連・中華民国による分割統治が計画されていた。加えて、スターリンは北海道の半分をソ連の占領地にすることをトルーマンに要求していた。こうしたことが実現していれば、日本は南北に分断されていただろう。

戦前から、天皇と日本政府はコミンテルンによる革命を警戒していた。ゆえに、ポツダム宣言を受諾するにしても、戦後の日本におけるソ連の影響は極力排除しなければならない。ならば、「ソ連対日参戦が決定打でした」などとは口が裂けても言えない。だから、「原爆投下が決定打でした」ということにして、ソ連に対してではなくアメリカに対して両手を挙げた。こういう推論が成り立つだろう。

それに加えて、アメリカにとっても、原爆投下が日本に対する決定打だったということにしておけば、日本を無条件降伏せしめたスーパーウェポンである原爆を保有しているのはアメリカだけなので、ソ連に対する牽制にもなる。日本にとっても、アメリカにとっても、原爆投下が決定打だったということにしておいた方が好都合だった。

先月、「布哇処分」で述べた通り、アメリカは君主制のイギリスから独立した共和制国家なので君主制には何の思い入れも無く、アメリカに併合されたハワイではカラカウア王家が断絶してしまっていた。だから、無条件降伏を受け入れた場合、天皇の処遇がどうなるのかは不確定だった。それでも、革命で皇帝を一家まるごと処刑したソ連に比べれば、アメリカに対して両手を挙げた方が、皇統の断絶を回避できるかもしれない、という判断が働いたと言えるだろう。終戦の詔勅は、まさにそのような「死の跳躍」だった。そして、天皇と日本政府は、賭けに勝った。

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